佐藤銀十郎は小栗家所領権田村(現群馬県倉渕村権田)の農家の出身で、若くして小栗家江戸屋敷に召され、フランス式調練による陸軍歩兵となる[1]。十郎は小栗が特に信頼し、権田村での暴徒撃退でも功績を挙げた人物で、中小姓格を授けられたとされる。小栗忠順の母・夫人・養子忠道の許嫁の三名を、処刑直前に家臣とともに会津へ脱出させた際、銀十郎はその護衛を務めた。脱出後は誠志隊坂隊に属し会津軍に加わり各地で転戦し、明治元年9月11日、会津熊倉において銃弾に倒れた。
熊倉村杉ノ下墓地には「本国上野佐藤銀十郎信一墓」と刻んだ墓碑が残されており、墓碑銘には「明治元年九月十一日 行年二十一歳 戦死」とある。
東善寺には銀十郎の墓もあり、戒名は「剣佐救清居士」と伝わる。また、小栗忠道・大井磯十郎とともに写った写真が残されている。