何建
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経歴
若くして石敬瑭の幕下に属し、厩のことを管掌した。天福元年(936年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、何重建は禁軍をつかさどる職を歴任し、驩州刺史・睦州刺史を遥領し、曹州防禦使に任じられた[1]。天福7年(942年)2月、延州節度兵馬留後に転じた[2]。閏3月、正式に延州節度使に任じられた[3]。この年、石重貴の諱を避けるために、名を建と改めた。天福8年(943年)10月、涇州節度使に転じた。11月、威勝軍節度使となった[4]。
開運元年(944年)2月、東南面行営馬歩軍都部署に任じられ、軍を率いて中都県に駐屯した[5]。5月、永清軍節度使に転じた[6]。11月、澶州節度使となり、北面行営馬軍右廂排陣使を兼ねた[7]。開運2年(945年)5月、河陽節度使に任じられた[8]。10月、再び涇州節度使となった[9]。開運3年(946年)1月、雄武軍節度使に転じた[10]。
この年の冬、契丹が開封府に入ると、何建は契丹に仕えることを拒絶した。後蜀の孟昶に使者を送って、同平章事を加えられ、引き続き雄武軍節度使をつとめた。1カ年あまりして、保寧軍節度使に転じた。中書令となり、広政年間に成都府で死去した[11]。