保母道雄
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経歴
1903年12月1日、岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市)に生まれる[1][2]。
1927年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業し、鴻池銀行に入行した。1933年、鴻池銀行が三十四銀行・山口銀行と合併して三和銀行(現:三菱UFJ銀行)が発足すると、同銀行に転じた[1][3]。
三和銀行では、戦時期に鴻池支店長代理、東京支店長代理、丸の内支店次長などを務めた。戦後、同行が北海道方面への支店網拡大を進めるなか、1946年11月に小樽支店開設準備委員となり、1947年3月に開設された小樽支店の初代支店長に就任した[4]。
1948年3月、東京事務所次長に転じ、1949年2月には東京駐在秘書役に昇格した。
東京駐在秘書役としては、三和銀行頭取の渡辺忠雄を補佐し、東京財界との連絡・折衝を担った。その後、京橋支店長に就任し、京橋支店を京橋交叉点角の第一生命別館へ移転・整備した。1954年11月には神戸支店長となった[1][4][5]。
1956年11月、三和銀行取締役に就任した。1957年5月には東京支店長となり、1958年に常務取締役、1960年5月に専務取締役へ昇進した。1961年1月、三和銀行を辞任した[1][6]。
同年1月30日、東洋電機製造に取締役副社長として入社した。同年11月28日、同社社長の国行一郎が辞任したことにより、社長職務を代行した。1962年7月に副社長を退任し、同社顧問を務めた[1][6][7]。
1963年11月、パレスサイド・ビルディングの副社長に就任した。同社は、毎日新聞社、リーダーズ・ダイジェスト、三和銀行系の東洋不動産が関係して設立された会社で、東京都千代田区一ツ橋のパレスサイドビルの建設・運営を担った。保母は、五社間の調整、設計、施工業者の選定、総工費の決定、資金調達、工事の督励、テナント誘致、ビル運営などに携わった[1][8]。
パレスサイドビルは1964年に着工し、1966年に竣工した。竣工後、ビルの経営安定化にも取り組み、収支計画や資産計画の作成、テナント入居、ビルメンテナンスなどを進めた。のちに同社社長に就任した[8]。
1977年ごろから気管支炎のため体調を崩したが、1979年6月の株主総会では医者の助言を押しのけて議長を務めた。1981年4月12日、死去した。享年77[8]。