寛政重修諸家譜では、兄の正勝の生母は「某氏」とされる一方で、正倫の生母は父の正室の保科正静養女とされている。
元文3年(1738年)に兄が死去したので、旗本保科家の家督を継いで旗本寄合席となり、将軍徳川吉宗に初御目見えを済ませる。
延享2年1月(1745年)に火事場見廻役に就任する。延享3年(1746年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑において出火之節見廻御役に「二千五百石 とらの御門内 保科主水」との記載がある。
延享3年12月(1747年)に死去する。享年27。法名は義操。墓所は代々の菩提寺である麻布の天眞寺。実子の内記は早世しており、末期養子として[3]大垣藩主家戸田氏分家にあたり、本家の飯野藩主保科家と縁戚関係がある旗本の戸田氏常の4男である正盈を迎えて相続させる。