倪若水
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進士に及第し、秘書省正字に任じられ、右驍衛兵曹参軍・福昌県丞・咸陽県丞・長安県丞を歴任した。剣南道黜陟使をつとめた。朝散大夫を加えられ、右台侍御史に転じた。まもなく吏部員外郎となった。宋州長史として出向し、慈州刺史に転じた[5]。開元2年(714年)、中書舎人・尚書右丞を歴任した。開元3年(715年)、汴州刺史として出向した。閑静な統治を尊び、民衆と官吏はこれに安堵した。孔子廟の堂や州県の学舎を増修築し、生徒を激励して、儒教を盛んにした[3][4]。
この年、山東で蝗害が発生し、宰相の姚崇は御史を分遣して蝗を捕らえ、埋めさせようとした。若水はこれに反対して、徳を修めることで対処すべきであると上奏した[6][7]。開元4年(716年)、玄宗が宦官に命じて江南にアカガシラサギなどの鳥類を採集させようと向かわせ、宦官が汴州に立ち寄った。若水はこのことを知ると、上表して諫めた。ほどなく入朝して戸部侍郎に任じられた。開元7年(719年)、再び尚書右丞となった[8][9]。1月26日、死去した。享年は59[5]。
家族
- 曾祖父:倪護
- 祖父:倪範
- 父:倪基[1]