八甲山純司
日本の力士 (1884-1951)
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来歴
1884年8月3日に、当時の青森県東津軽郡横内村で生まれる。子供の頃から怪力で、19歳で土地相撲での活躍を見た若松から勧誘されたが、自身は長男だったために両親から反対された。それでも3年後に角界入りを決意し、兵役終了後に家出して若松部屋へ入門した。1908年1月場所において幕下付出で初土俵を踏むと順調に出世していき、1910年6月場所で新十両昇進、その十両も1場所で通過して1911年2月場所では新入幕を果たすというスピード出世だった。
身長175cm・体重94kgと当時の力士としては標準的な体格ながら筋肉質で、特に守りに入った際の腰の重さには定評があった。当時、「梅常陸時代」として明治時代後期の相撲黄金時代を築いた梅ヶ谷藤太郎(2代)でも八甲山を土俵の外に押し出せず、2度の引分となっている。人気幕内力士であるゆえに三役昇進を期待されたが、怪力任せの強引な取り口が多いのに加えて「オレは稽古しなくても、幕内は十分務まるのだ」と豪語していたにもかかわらず、酒豪が災いして三役昇進は果たせず、幕内在位20場所を全て平幕で過ごした。なお、1914年5月場所から1915年6月場所までの3場所は「陣幕」を名乗った。1920年1月場所では幕内で10戦全敗を記録したほか、現役引退直前は東十両12枚目まで陥落しており、力の衰えは誰が見ても明らかだった。
6代若松の養子で三段目格行司の2代木村一学が24歳の若さで7代若松を襲名すると、これに不満を抱いて大ノ里と共に湊川部屋に移籍した[1]。
1922年1月場所を最後に引退し、年寄・高嶋を襲名して高島部屋を創設した。戦中から戦後直後にかけて、吉葉山潤之輔・三根山隆司・輝昇勝彦と、後に戦後の大相撲界を背負って立つ名力士を多数育成した[2]。
1951年1月10日に死去、66歳没。墓所は東京都台東区の本法寺。没後、高嶋部屋は初期の弟子で独立していた元小結・巴潟の安治川親方が名跡変更して継承し、吉葉山は横綱へ、三根山は大関へ昇進し、いずれも一度だけだが賜杯を手にしている。
現在、故郷・青森市に、八甲山の顕彰碑が存在する。
エピソード
主な戦績
- 現役在位場所数:29場所
- 通算幕内成績:74勝101敗8分1預16休
- 幕内在位:20場所
場所別成績
| 春場所 | 夏場所 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1908年 (明治41年) |
幕下付出 – |
西幕下33枚目 – |
||||
| 1909年 (明治42年) |
東幕下12枚目 – |
東幕下12枚目 4–1 |
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| 1910年 (明治43年) |
西幕下筆頭 3–1 1分 |
東十両6枚目 5–2 1分 |
||||
| 1911年 (明治44年) |
西前頭15枚目 4–4 2分 |
西前頭13枚目 5–3 2分 |
||||
| 1912年 (明治45年) |
西前頭10枚目 6–4 |
東前頭9枚目 3–7 |
||||
| 1913年 (大正2年) |
東前頭16枚目 4–4–1 1預 |
西前頭7枚目 1–9 |
||||
| 1914年 (大正3年) |
西張出前頭18枚目 6–4 |
東前頭9枚目 5–4 1分 |
||||
| 1915年 (大正4年) |
東前頭7枚目 3–6 1分 |
西前頭13枚目 5–4 1分 |
||||
| 1916年 (大正5年) |
西前頭11枚目 6–4 |
西前頭4枚目 1–2–47 |
||||
| 1917年 (大正6年) |
東前頭17枚目 5–5 |
東前頭12枚目 3–7 |
||||
| 1918年 (大正7年) |
東前頭14枚目 6–3 1分 |
東前頭6枚目 3–7 |
||||
| 1919年 (大正8年) |
東前頭13枚目 6–4 |
東前頭11枚目 1–5–4 |
||||
| 1920年 (大正9年) |
東前頭17枚目 0–10 |
西十両筆頭 4–2 |
||||
| 1921年 (大正10年) |
西前頭17枚目 1–5–4 |
東十両筆頭 0–3–2 |
||||
| 1922年 (大正11年) |
東十両12枚目 引退 0–0–5 |
x | ||||
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
- 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。
改名歴
- 八甲山 純治 (はっこうざん じゅんじ) - 1908年1月場所 - 1912年5月場所
- 幕下在位時の番付表記は「八甲山 純二」。
- 八甲山 純司 (はっこうざん じゅんじ) - 1913年1月場所 - 1914年1月場所
- 陣幕 久五郎 (じんまく きゅうごろう) - 1914年5月場所
- 陣幕 純司 (じんまく じゅんじ) - 1915年1月場所 - 1915年6月場所
- 八甲山 純司 (はっこうざん じゅんじ) - 1916年1月場所 - 1917年5月場所
- 八甲山 純治 (はっこうざん じゅんじ) - 1918年1月場所 - 1918年5月場所
- 八甲山 純司 (はっこうざん じゅんじ) - 1919年1月場所 - 1920年1月場所
- 八甲山 純治 (はっこうざん じゅんじ) - 1920年5月場所
- 八甲山 純司 (はっこうざん じゅんじ) - 1921年1月場所
- 八甲山 純治 (はっこうざん じゅんじ) - 1921年5月場所 - 1922年1月場所
- 以上、下の名前の「純司」と「純治」は当時の考え方からして表記揺れとも考えられる。