引分 (相撲)
From Wikipedia, the free encyclopedia
相撲用語としての引分(ひきわけ)は、両力士が疲労のためにこれ以上勝負をつけられない場合に与える裁定の一つである。
かつての相撲は全体的にがっぷり四つに組み合ってから勝負をつけるものが多かった。その場合、両力士が組み合ったまま勝敗をつけられない場合が出てくる。水入りの制度により一応の疲労回復は可能でも、その後も再び動けなくなることがある。その場合に「引分」の裁定が下され、星取表には「×」の記号で記されることになる。
江戸から明治にかけては、そうした物理的なものの他にもお抱え大名の都合や、上位力士の面子を保つために無理をして勝負をつけないで四つに組み合ったまま引分に持ち込むようなことも見受けられた。横綱の大砲万右エ門は明治40年夏場所にて9日間皆勤して9日間全て引分を記録している[1]。常陸山と梅ヶ谷の両雄の対戦も、横綱昇進後は引分となることが多かった。
1909年の旧・両国国技館開館によって東西の団体優勝制度や個人への優勝額の授与が始まると、勝負をつけることを心がける力士も多くなり、栃木山のようなスピードのある相撲をとる力士も出てくるようになると引分は減少の傾向を辿った。大正末期になってから様々な勝負についての制度改革が行われた際に二番後取り直しの制度が決められると引分は大幅に減少した。
1943年5月場所10日目に「青葉山徳雄 - 龍王山光」戦が引分となったが、軍の影響下にあった協会幹部から嫌がられて、両力士とも〈敢闘精神不足〉という名目で出場停止の処分を受けた。なお、青葉山はその前日の9日目にも九州山義雄との対戦で引分を記録しているが、この時は九州山が出場停止処分を受けることは無かった[2]。
現在では二番後取り直しの後に水が入り、なお且つその後も動きが無くなった場合に「引分」とすることとなっている。現在、幕内の取組での引分は1974年9月場所11日目の「三重ノ海剛司 - 二子岳武」戦が最後となり、それ以降は2025年11月場所終了時点の現在まで50年以上も幕内での引分は出ていない[3]。なお、引分けの裁定の一つに『預り』がある。この時の取組では呼び出しが『休場』や『不戦勝』などと同様の『引分』と書かれた白い布を拡げているが、場内アナウンスでは「只今の一番は引分・預と致します」と説明され、預りとしては記録されていないものの、預かりについて放送された最後の取組でもある。十両最後の引分の一戦については判っていない。
幕下以下では水を入れないため、取組が長引いた場合は即座に二番後取り直しとなるが、取り直しの相撲も長引いた場合に再度取り直しとするか引分にするかは審判の判断に委ねられる。幕下以下での引分は1986年7月場所5日目の「市ノ渡三四四 - 梅の里昭二」戦が最後となっている。