六条局
From Wikipedia, the free encyclopedia
後年の記述であるが、梅小路共方の日記(正徳3年10月2日条)によれば、新崇賢門院(櫛笥賀子、櫛笥隆賀の娘で、中御門天皇の生母)の母は家女房であるが、隆賀の継室(六条局)が母として遇されていることや継室は西洞院時成の娘とされているが実は三条西実教の娘であること、そして、母親は時成の姉で霊元天皇の時代に勾当内侍を務めていたが実教が密通して子を産ませてしまったため、勾当内侍の弟である時成が子供を引き取って育てて後に隆賀に嫁がせたこと、後に内裏に上がることを許されて「六条局」と呼ばれたことを記している。六条局の両親については庭田重条の日記(享保2年6月5日条)にもほぼ同様の内容が記されており、ほぼ事実を伝えているとみられている[1]。六条局の母とされている女性は元々「平内侍(たいらのないし)」[注釈 1]と呼ばれていたが、後西天皇の時代より仕えていた前任の勾当内侍である冷泉為尚の娘が後西院と密通にあるという噂が原因で東福門院から暇を出されたために、寛文6年(1666年)4月に後任として昇格した。しかし、当時為尚娘の密通疑惑は後水尾院の信任が厚かった三条西実教による讒言であり、平内侍を後任に推挙したのも、為尚娘の弟である今城定淳[注釈 2]を蔵人頭に推挙したのも実教という風説が書かれた怪文書[注釈 3]が流れていたという[2]。しかし、厳格な実教を疎んじていた霊元天皇の工作によって寛文9年(1669年)9月に実教が失脚すると、勾当内侍(元の平内侍)も退くことになった[3]。