内海久二

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内海 久二(うちうみ きゅうじ、1926年2月1日 - 2007年6月19日)は、歌謡曲を主体にした日本の歌謡詩人[1]竹久夢二の研究家。本名は内海久次。

竹久夢二の郡山常宿旅館「旭館」

ふるさとに生き、根付いて確かな人生を送る人びとに共感し、それぞれの郷里を応援する村おこし町おこしの歌謡詩を生涯にわたって作詩した。福島県郡山市の、音楽を中心とする青年文化活動の興隆を通じた街づくりに仲間とともに努力し、暴力団との対決を経て音楽都市・郡山の発展に貢献した[2]。一方で、幼児の折に邂逅した竹久夢二との思い出を終生の奇貨として[3]、夢二とそのゆかりの女性の足跡をたどって旅を重ね、その生涯を詩作に謡った[4]

経歴

竹久夢二との出会い

1930年夏、父栄次郎が郡山駅前で旅館業を営んでいた時に、白い洋服を着て蝶ネクタイをした男性が駅に降り立ち、折から遊んでいた誰とも知れないオカッパ頭の内海を撫でてくれた。これを機縁に父が兄妹三人を連れて竹久夢二の常宿「旭館」を訪れ、子供たちの遊ぶ姿の揮ごうを依頼した。翌日柿の木を囲む三人像が出来上がった、その出来映えに感激した父は郡山を代表する料亭に夢二を招きいたく歓待した[5]。幼いながらもこの時の夢二との出会いを心に深く刻んだ内海は、生涯を通して亡き夢二に私淑し、その生きざまを研究する人生を送った。五歳の時の絵は、1933年の大火により焼失した[6]

疎開児童の応援歌温泉街に響く

1942年12月に3ヶ月繰り上げて郡山商業学校を卒業した内海は、東京神田の日華学館で中国語を1年間学んだ後に、1944年、故郷の軍需工場である浜津鉄工場[7] に就職した。1945年4月12日、郡山市は突然米軍のB-29の大群による空襲を受けた。保土ヶ谷化学日本化学などとともに浜津鉄工場も爆撃をうけ、死者6名を出す大惨事となった[8]。別の用件で工場を離れていた内海は、奇跡的に命拾いをした。郡山市全体で死者数460名を数える大きな被害を蒙った[9]

空襲の被害を避けるため会社は、工場の一部を郡山に隣接する磐梯熱海温泉の山林に移設した。100名を超える内海達青年労働者たちも旅館を宿舎として、数キロ離れた作業現場まで往復した。若い仲間の士気を高めるために、内海が作詩し先輩社員が作曲して「熱海建設隊の歌」が完成し、朝夕の出退勤の折には全員で合唱しながら温泉街を行進した。これを聞いて折から東京から疎開していた旅館街の両サイドの学童たちが、窓から顔を出して合唱に和して、時ならぬ大合唱が温泉街に響き渡った。自分の詩作が歌となった時の力の大きさと、作詞者としての想いを深める感動が沸き起こった[10]

詩誌『蒼空』と好人クラブ

詩誌『蒼空』は母校の先輩である丘灯至夫が戦前の1935年に第一期、1940年に第二期を創刊した伝統ある郷土の詩誌であった。当時は西條八十門田ゆたか、若き日の太田博三谷晃一などが作品を寄せた中央でも実力を認められた有力詩誌であり、同人たちの多くは中央の詩誌『蝋人形』の同人でもあった[11]1945年9月に軍隊から復員した内海は、翌10月に第三期・再刊第1号誌に入選を果たして、その後誌友を経て同人となり、編集の中核を担っていった[12]古関裕而との最初の作品「すずらん咲く丘」や「涙で眺むる茜雲」「アデユー・パリ」などが入選作品となった[12]。この時の仲間たちが中心となって主宰の丘灯至夫宅に集い、「好人倶楽部」が結成され歌人で医師の秋元藤之助[13]医師を会長として若い芸術家が集い梁山泊の趣を呈した[14]

1946年に「好人倶楽部」主催で3月に「蒼空誌社・春の音楽まつり」が、11月に「蒼空誌社・秋の音楽まつり」が開催された。東京からは、NHK藤倉修一アナをはじめ、春には霧島昇二葉あき子など、秋には近江俊郎安西愛子古関裕而などの豪華出演者がそろった本格的な音楽祭となった[14]1947年9月、先に歌詞応募していたテイチクレコードからの合格通知があり、歌ディック・ミネで「股旅ブルース」の曲名で発売することが決定した。たまたま、A面の「星の流れに」のB面に組み込まれたことから、レコードは大ヒットして、当時としては多額の300円という思わぬ著作権料が舞い込んだ[15]1949年、丘灯至夫がコロンビアレコードの専属作詞家として上京することとなり、詩誌『蒼空』は休刊となり「好人倶楽部」は休部となった[16]

父との確執と和解

父栄次郎は早くに亡くなった長男に代わって、口にすることは無かったが内海に家業の旅館業を継いで欲しいとの強い願いを持っていた[17]。しかし詩作に熱中して、筆名も尊敬する竹久夢二にあやかって「久二」として生き生きと過ごしていた内海の姿に不安を感じてもいた。1949年12月末、レコード会社から原稿料を手にした内海はインフレと食糧難の中、ヤミ市で買った数十個の貴重なタマゴを病床にある父の枕辺に届けた、そのタマゴには「久二」と記してあった。おもむろに身を起こした父は病身を押して数か月ぶりに外出をして、立派な桐の下駄を抱えて戻ってきた。焼け火箸を手にした父はあえぎながら下駄に「久二」の焼き印を刻んでいった。卵が無くなるころ、父は73歳の生涯を閉じた[18]。折から歳末の喧騒な街角には歌が流れていた、それは内海作詞の初めてのヒット作品「股旅ブルース」であった[19]

馬そりとNHKラジオ番組出演

1947年1月、NHK郡山放送局からの依頼で安積郡月形村で開催されるのど自慢の審査を依頼された[20]。猪苗代湖の南岸に位置するこの村は、湖上をわたる磐梯おろしの北風をまともに受ける豪雪地区であった。当時は交通手段に乏しく、磐越西線上戸駅から馬そりに乗り、鈴の音高く12㎞の道のりをそりにしつらえられた炬燵に温められ、毛布にくるまって雪の中を進んだ。村の青年たちとの縁が深まり毎年訪問を繰り返す中から、「月形音頭」「月形小唄」を作詞した[21]。その後もNHKの地方局からの出演依頼は続き、白河の南湖公園西郷村の国立種畜牧場[22]などを重いデンスケを担いで訪れ、東北各県のNHK録音構成番組の制作に携わった[21]

1951年夏、そんなラジオ番組を聞いて、南会津郡伊北村から依頼があり、ダム建設に沸く只見川電源開発の進捗に伴い村の宣伝事業を進めたいとの意向であった。内海は自家用車もない当時の厳しい交通事情の中、ローカル線のSLを乗り継ぎ[23]、さらに乗り合いバスに数時間揺られて福島県のへき地とされる奥会津までの遥かな道程を一日かけて訪れ、旅館に泊まり込んで「只見音頭」[24]「只見小唄」「只見ブルース」を続けざまに作詩した。同行した郡山青年グループの一員で税務署職員の関本眞而(関本真二)が作曲し、歌は完成した。後日の発表会では村長から丁重な感謝状が渡され、三篇の詩と歌は、後に町村合併で只見町となった町民に長く愛された[25]

「ボクの街・郡山」と街おこし青年文化活動

1947年10月、一人の青年が内海を訪れてきた、以後生涯の友となる今泉正顕である[26]。三編の童謡詩を持参した今泉は、是非内海に弟子入りしたいとのことであった。21歳の春秋に富む青年内海が、同年生まれの今泉正顕の師匠となることは、極めて異例であり困難であった。しかし、今泉正顕が郷土に寄せる愛情と、大所高所から見る識見の確かさを内海は理解した[27]。この日を契機に二人は互いの知人友人を捲きこんで、深い友情と、高い信頼に基づき50年に亘る街起こしの道を歩んでいった[28]。郡山市では、1948年には有名歌手の興行権を巡って暴力団の抗争があり、続く1949年には市会議員に複数の暴力団員が当選する事態が発生した。この時は内海は今泉を会長とする青年同志会の一員となって、トラックから市民に呼びかけるとともに、同志会はGHQの米軍政部をも動かして遂に暴力団市議の追放に成功した[29]

この年、二人の周囲から仲間の友情を固める歌が欲しいとの声が高まり、内海が「ボクの街・郡山」[30]を作詩して、これも仲間の税務署職員の関本眞而が作曲し、グループのシンボルソングが完成した[31]。「ボクの街・郡山」は活動の活発化とともに、グループのみならず広く郡山市民の愛唱歌として親しまれていった。やがて、グループの活動は市民の力を糾合すべく、合唱と音楽活動を中核とした市民文化運動へと発展的に拡大し、市内の指導層をも捲きこんで町おこしの中核となり、1952年の「郡山青年文化協会」設立に結実した。会長・今泉正顕、副会長・内海久二のコンビで広く市内の文化団体を糾合して、会は郡山市における文化活動の社会的価値の主流を占めていった[32]

『歌暦五十年』編集

「歌暦五十年」著者・丘灯至夫(丘十四夫) 全音楽譜出版社 昭和29年5月

1948年、詩誌『蒼空』の編集出版と「好人クラブ」や「郡山青年文化協会」を通じての文化活動に、日夜多忙な毎日を送っていた内海であったが、前二者の活動を支えてきた丘灯至夫が『毎日グラフ』[33]創刊に際しての編集要員として上京することになり、「郡山青年文化協会」を除く二つの活動は一旦休止することになった[34]。翌1949年、丘はコロンビアレコードの専属作詞家としても迎えられた。新進作詞家としてヒットが出ない中、多方面な分野の仕事にも関わっていた[35]

1951年、丘の要請に応えて、内海は丘が全音楽譜出版社の依頼を受けて著作する『歌暦五十年』の編集に参加するため上京することになった[35]。『歌暦五十年』は、1900年から50年間の明治から昭和に至る約1100曲の歌を網羅するもので、ほぼ全曲にわたって、歌とその背景や時代相を絡ませ、作詞者・作曲者・歌手にスポットを当てる解説で満たされたページは、歌謡に対する深い愛情で包まれた新しい歌謡の歴史を開くものであった[36]。多忙な丘とともに、内海は、1951年から1953年にかけて郡山から東京まで何度も往復して丘の自宅に泊まり込み、同じ世田谷区に住む西條八十の助言も受けながら丘とともに編集に努力し、日本の新しい歌謡の歴史を開く700頁近い大著は完成した[37]

NHK交響楽団の公演と「郡山市民の歌」誕生

国鉄郡山工場大食堂・NHK交響楽団演奏会

1954年、市民の間から本格的なオーケストラの演奏を聴きたいとの声が湧き起こっていたが、会場難のため実現に至らないでいた[38]。「郡山青年文化協会」とこれも内海久二が役員を務める「郡山音楽協会」の双方の役員会員が主体となりこの年6月に、郡山では初めてのNHK交響楽団の演奏会が開催された[39]。演奏会場は戦前に飛行機の格納庫として準備された資材を、戦後に国鉄が譲り受けて郡山工場に従業員食堂として建設されたものであった[40]国鉄工機部郡山工場[41]の2000人収容のフラットな大従業員食堂に、大量の椅子を市内の企業や学校からかき集めたにわか造りの客席とステージを作り上げ、トタン屋根の下に満席の長椅子で待ちわびる5000人の観客の耳に、クルト・ウェス指揮のベートーヴェン作曲交響曲第6番・「田園」が高らかに響き渡った[42]。公演の終了後、会場の食堂は蒸気機関車の維持補修の主力工場を支える工員のための重要な施設であるため、一日たりとも工場の作業を休ませない様に、主催者側の青年たちは大成功の喜びを分かち合う暇もなく、雨の中をずぶ濡れになって借り入れた椅子や舞台装置の返還と食堂の復旧に深夜まで奮闘した[43]

郡山市には戦前の1931年に制定した「郡山市歌」[44]が存在した。明治天皇の御来駕を賛美し殖産興業を展望する明治調の格調高い曲であったが、戦後の市民本位の民主主義体制とはそぐわないものとなっていた。1958年、市は市政施行30周年を記念して新たに「郡山市民の歌」の作詩を一般公募し審査の結果、内海久二の作品が当選し作曲は同じ福島県出身の古関裕而に依頼して歌は完成し、9月の式典の折に公開された[45]。以来、この歌は広く市民に親しまれ、正午の時報とともに市内各所の公報スピーカーからメロディが流れている。

東北のシカゴ から東北のウィーンへ

まだ市内には集会施設が少なく、会場の不足は時には暴力団の興行権と衝突する危険性があり、市民の文化活動を推進する上での高い障壁となっていた[46]。講演会、音楽会或いは映画会などの各種の文化活動は小学校の講堂やお寺の本堂などを利用して開かれてきた。四年前のNHK交響楽団公演を会場不足のため苦心惨澹の上大成功に導いた郡山青年文化協会は、これまで大きな音楽会が福島や仙台で開かれ、郡山では開催できなかったことを改善すべく、「中央文化の途中下車」を合言葉に市民会館づくりを最大目標に掲げた[47]。各種文化団体とともに郡山市に要望を続けて、1958年10月に東北では屈指を誇る「郡山市民会館」が落成し、市制35周年式典は新装なった郡山市民会館で挙行された[48]。盟友である今泉正顕が、竣工なった市民会館の館長兼事務局長に就任したこともあり、内海久二は「郡山青年文化協会」の会長を引き継いだ[49]

1959年1月、発表の場を得た文化活動は、「郡山勤労者音楽協議会(郡山労音)」を新たに組織し、委員長・今泉正顕、宣伝部長・内海久二などの下に、人口10万人の小都市ながら会員6000人を突破する全国でもまれにみる急速な発展を遂げた[50]1960年、副会長となった内海は「石井好子」公演のために、新曲「恋のメルヘン」[51]を作詩した。毎回満席の3ステージ、通算700回のコンサート、延べ百万人の市民に夢を与え[52]、全国一ともいわれる「郡山労音」の発展の主因は、労働団体を名乗りながらも実態は青年文化団体が主導権を握り、広く一般市民を会員としたことにあった[53]

1961年、「郡山労音」が「ライプツィヒ・ゲバントハウス・オーケストラ」公演を開催したことが機縁となり、東北の一地方都市としては極めて珍しい、「国際」を冠した「郡山国際フィルハーモニー協会」が設立された[54]。三浦通庸[55]会長、太田緑子[56]副会長の下に内海が事務局長となり、「郡山労音」と二つの団体の役員を掛け持ちして内海たちは「ロンドン交響楽団」「ソヴィエト国立交響楽団」「ベルリン国立歌劇場管弦楽団」など超高名な外国の音楽楽団の誘致と公演、毎回満席の観客動員に続けざまに成功して「郡山市民会館」の高度な活用に尽力した[57]。人口100万人前後の大都市での開催が常識であった当時、東京の大新聞社や海外の演奏家たちは、人口10万人程度の田舎都市での演奏会開催については、観客動員数や観客のマナーについて極めて悲観的な見方が一般的であった。信じ難いことに、郡山の青年たちはそんな懸念を微塵も感じさせない熱意をもって、毎回魔法のように大都会でも達成できないほどの大成功の裡に、国内外の演奏家たちの公演を次々に実現していった[58]

一方で、1957年1962年には暴力団の対立抗争事件があり、青年有志の活動により1949年の暴力団市議排除運動が成功したにも関わらず、いまだ暗い影が市民を覆っていた[59]。「東北シカゴ」の汚名はそんな暴力団の跋扈を、アメリカ禁酒法時代のシカゴに擬えた極めて不名誉な呼称であり、郡山市民は時には自分の出身地を表に出すことをはばかる傾向があった[60]。しかし青年たちは挫けなかった、内海をはじめ戦後の文化活動発足当時は20代であった青年たちは今や30代に達しており、いかにして市民の力を結集してふるさと郡山の真価を発揮できるかのノウハウを身をもって実践してきた。

青年たちの固い意志に応えて、メディアに麗々と踊る「東北のシカゴ」を払拭すべく、1964年郡山市が主唱して「十万人コーラス」運動が実施された。毎週第三金曜日をコーラスの日と定め、市長以下職員をはじめ、文化団体、小中高校生、職場団体、婦人団体など全ての市民が参加する街ぐるみの音楽活動が展開し、街角にはコーラスがあふれた。1965年に入り町村合併を機にこの運動は「二十万人コーラスの集い」の市民運動に発展していった[61]。このような取組みが、後に東宝映画において「百万人の大合唱」として映画化された。町おこしに青春の力を振り絞ってきた、今泉正顕と内海久二を中心とする若者たちに、市民の間からいつしか「10人の侍」の呼称が与えられていた[62]。また、全国まれにみる街あげての音楽活動に対して、自他ともに「東北のウィーン」の声が広がっていった[63]

夢二探訪の旅

身をもって街おこしに邁進してきた年月であったが、父栄次郎から引き継いだ郡山駅前の「柏屋旅館」は、モーターリゼーションの進展と旅館からホテルへの波に抗しきれず、1964年に50年続いてきた屋号の灯を閉じた[64]1966年、内海は旅に出た[65]。幼いころの出合いを大切に温め、親の意向に逆らってまで自分の名前を「久次」から「久二」に変えて、私淑してきた竹久夢二の面影を追って、その足跡をたどり夢二と夢二ゆかりの女性の姿を歌謡詩に謡い記す、長いひとり旅であった。『夢二―ふくしまの夢二紀行ー』[66]には、「お葉恋唄」「たまき愛しや」「おしの京ずまい」などの35篇が、『夢二をうたう』[67]には「庄内の夢二」「横手の夢二」などの夢二を偲ぶ8篇の歌謡詩が新たに載せられている。旅のもう一つの目的は、全国に存在する夢二記念館と夢二研究者を訪ねて、竹久夢二の遺作からその心情を偲び、そのこころと人柄に触れて内海自身の研究を深めることでもあった[68]

タウン誌『街こおりやま』

1975年5月、内海久二は、三谷晃一、今泉正顕を中心とする11名の編集同人と編集責任者・伊藤和[69]とともに、月刊タウン誌『街こおりやま』を創刊した[64]。他のタウン誌と異なりユニークなところは、全国で唯一同人制でスタートしたことである。編集責任者に一任することなく特異な才能と行動力を持った編集同人たちがリーダーシップをとり、各自得意とする多彩な分野でのエッセーや対談、地元のイベント、文化や歴史などを紹介し、商業主義を排して、タウン誌自体が町おこしの原動力となったことである[70]。編集同人は、これまで郡山を「東北のウィーン」と称せられるまでに高めてきた、青年文化活動に共に汗をかいてきた仲間を主体としていた[71]

創刊5年目の1979年1月、誌上において内海は明治から昭和までの郡山における音楽活動を中心とした、「郡山の人脈ー音楽篇」の執筆を開始した。民謡からクラシックに至るジャンルを問わない、作曲、作詩、器楽、合唱、公演など地域のあらゆる音楽活動に参加した人々に光を当てる活動となった。演奏家でも音楽家でもない一介の歌謡詩人に過ぎなかった内海が、全国版『歌暦五十年』の編集や、「郡山労音」「郡山国際フィルハーモニー協会」による700回の演奏会開催を通じて、求めずして日本と世界の音楽活動全般とそれを支えた多方面の人物に通暁する存在となっていた。24か月間、毎回8ページに及ぶ連載執筆は自らの音楽活動の深化を巧まずして示すものであり、内海にとって30年以上にわたって、これまで今泉正顕をはじめとする仲間たちと協力して取り組んできた音楽を通じての町おこし活動を、タウン誌を武器として郡山の魅力を一層深化させる新しい街おこし活動のステージとなった[71]

晩年

いつの頃からか、「街の歌謡作家」と言われるようになった内海はふるさとへの応援止み難く[72]1996年「うねめばやし」1999年「望郷こおりやま」と詩作は続いた。1999年、48年前に「只見音頭」「只見小唄」を作曲して以来、内海とともに二人三脚で町おこしに励んできた作曲家の関本真二の訃報に涙し、「真ちゃんに捧げる歌」を作詩した。2004年、5度目のガンに冒されながらも、「日本の恋唄」シリーズの作詩にチャレンジして、「北の大地恋唄」から沖縄の「竹富島恋唄」までを謡う計画であったが[73]、完成を見ずして2007年6月死去した。

著作

  • 『私の半生』 福島民友新聞社 1994年8月 pp.1-30
  • 『郡山・歌はなつかし史―郡山の歌を集めて』 郡山市制50周年記念行事実行委員会 1975年3月。
  • 『ふくしまのうた』 福島中央テレビ、1977年5月。
  • 『ボクの街・郡山』 街こおりやま社 1984年11月。
  • 『夢二と郡山』緑の笛豆本 第255集 1990年。
  • 『夢二―ふくしまの夢二紀行』 歴史春秋出版、1991年8月。
  • 『夢二をうたう』緑の笛豆本 第322集 1995年。
  • 『夢二五題』緑の笛豆本 第371集 1999年。
  • 『紅花の譜』 手書きの私家版 作成年月不明 全43p  《天正13年、父・輝宗を略取された伊達政宗と畠山義継との戦いを描いた小品》
  • 『歌暦五十年』 全音楽譜出版社 丘灯至夫著 編集補助・内海久二 1954年5月                           

主な作品

歌謡詩

  • 「熱海建設隊の歌」 作曲・西館与四衛 1945年4月。
  • 「すずらん咲く丘」福島民友新聞社「私の半生」p.12 作曲・古関裕而 1946年。
  • 「目明し稼業」『詩誌蠟人形』1946年12月。                                       
  • 「股旅ブルース」 テイチクレコード、作曲・大久保徳二郎 歌・ディックミネ 1947年10月。
  • 「ボクの街・郡山」『ボクの街・郡山』 街こおりやま社 作曲・関本真而 1949年10月。
  • 「文化郡山の歌」 郡山文化協会、作曲・関本真而 1950年11月。
  • 「只見ブルース」 伊北村文化協会 作曲・関本真而 1951年11月。
  • 「駕籠屋の歌」 詩誌「詩と歌謡」〈西條八十主宰〉 1953年第2号
  • 「恋のメルヘン」作曲・寺島尚彦 歌・石井好子 1960年。
  • 「花のスカイライン」] 作曲:古関裕而 福島民友新聞社、コロンビアレコード 歌・守屋浩 1960年10月。
  • 「郡商新応援歌」郡山商業高等学校、作曲・安田安夫 編曲・小林務 1970年2月。
  • 「ボクの街・山形」] 山形市教育委員会、ビクターレコード 作曲・佐藤哲夫 1969年10月。
  • 「越龍追慕の歌」 作曲・関本真而 1982年 10月。
  • 「花かつみ讃歌」 作曲・岡部富士夫 1984年1月。 
  • 「三春慕情」 1984年4月。
  • 「嗚呼 二本松少年隊」1996年6月。
  • 「金木犀のうた」 1996年8月。
  • 「郡山JCの歌」 (JC・青年会議所) 1998年5月。
  • 「少年の日のうた」 1998年10月。
  • 「望郷こおりやま」 1999年1月。
  • 「真ちゃんに捧げる歌」 1999年3月

童謡詩

  • 「落葉のたき火」 主婦と生活・新年特大号入選、1952年1月。
  • 「すねっこ」 NHK音楽うでくらべ課題詩、1952年7月。
  • 「春を待つわらべ唄」 福島県芸術祭・棚木桜縁起、1974年11月。

新民謡

  • 「月形音頭」「月形小唄」 月形村 1947年1月。
  • 「只見音頭」「只見小唄」 伊北村文化協会 作曲・関本真而 1951年11月。
  • 「観音音頭」 作曲・鈴木武司 振付・藤間嘉穂留 1958年7月。
  • 「采女おどり」 郡山采女まつり実行委員会、作曲・佐藤哲夫 歌・山田実 1965年4月。
  • 「郡山ばやし」 郡山商工会議所・郡山観光協会、作曲・下谷鈴松 1965年4月。
  • 「復興仙台音頭」 河北新報社 1965年.
  • 「あやめ念仏踊り」 福島県芸術祭・棚木桜縁起、作曲・杵屋弥一郎 1974年11月。
  • 「うねめばやし」 1996年8月。

邦楽

  • 「長唄・花かつみ」 第10回花柳流あやめ会、作曲・杵屋弥一郎 1977年8月。
  • 「長唄・芳る山」 第11回花柳流あやめ会、作曲・杵屋弥一郎 1978年5月。

抒情詩

  • 「つばくらめ」 蒼空詩社、詩誌『蒼空』、1946年9月。
  • 「君、美しく嫁ぎゆく」 作曲・関本真而 1961年11月。
  • 「金透小学校創立90周年讃歌」 創立90周年実行委員会、1963年11月。
  • 「郡商創立50周年を祝う」 郡山商業高等学校校友会誌『五百陵』 1972年2月。
  • 「廻り灯篭」 『ボクの街・郡山』 街こおりやま社 1980年8月
  • 「琵琶法師と道祖神」 『街こおりやま』 「デコ人形」 1981年12月

市歌・校歌等

  • 「文化郡山の歌」 郡山文化協会 作曲・関本真而 1950年11月
  • 「希望を胸に進もうよ」 郡山青年文化協会 作曲・足羽章 1952年12月。
  • 「郡山市民の歌」 郡山市教育委員会、作曲・古関裕而 歌・伊藤久男 1954年6月。
  • 「太田綜合病院歌」 作曲・足羽章 1956年6月。
  • 「郡山市立守山小学校校歌」 作曲・和田明 1956年10月。
  • 「躍進郡山讃歌」 郡山青年会議所 作曲・鳥居正積 合唱・混声合唱はもるかい 1958年8月。
  • 「帝京安積高等学校校歌」 作曲・鳥居正積 1961年。
  • 「鮫川村立鮫川小学校校歌」 作曲・古関裕而 1970年2月。
  • 「三春町立中妻小学校校歌」 作曲・八代成美 1978年3月。
  • 「花かつみ讃歌」作曲・岡部富士夫 株式会社・三万石1984年1月
  • 「FCTソング」福島中央テレビ編 『燃えろFCT』 1970年4月、65頁。

夢二をうたうー内海久二詩集

  • 『夢二―ふくしまの夢二紀行』夢二をうたう(抄) 歴史春秋出版 1991年8月 pp.181-200。
    • 「たまき愛しや」
    • 「たまき」
    • 「おしま」
    • 「おしの京ずまい」
    • 「彦乃慕情」
    • 「僧衣の夢二」
    • 「夢二盆踊り」
    • 「会津の夢二」
    • 「浮名」
    • 「夢二と雪と」
    • 「お葉恋唄」
    • 「夢二望郷」
    • 「群馬の夢二」
    • 「上州の宿」
    • 「夢二旅衣」
    • 「夢二絶唱」
    • 「伊香保小唄」
    • 「宵待ち草」
    • 「夢二と少年」
    • 「初しぐれ」
    • 「月燦然」
  • 『夢二をうたう』(抄) 緑の笛豆本の会 322集 1995年8月。
    • 「津軽の夢二」  
    • 「異郷の夢二」 
    • 「横手の夢二」
    • 「庄内の夢二」

歌碑

  • 「ボクの街・郡山」 郡山市麓山町 郡山市公会堂前庭 1984年11月 歌謡碑建設実行委員会 代表・今泉正顕 建立
  • 「郡山市民の歌」 郡山市西部体育館・東 2020年2月 郡山西ライオンズクラブ 代表・西条善男 建立
  • 「緑豊園の歌」 郡山市 授産センター緑豊園

顕彰

脚注

参考文献

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