内灘闘争
昭和中期に石川県内灘村で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動
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経過
1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争で使用するアメリカ軍の砲弾の需要が大きくなり、日本国内のメーカーから納入される砲弾の性能を検査するための試射場が必要となった。試射場には長い海岸線をもつ場所が適しており、内灘の他、静岡県の御前崎および愛知県の伊良湖浜が最終候補地に残ったが、内灘は、試算された補償額が最も安くかつ砂丘地という好条件であった[1]。
1952年9月に政府から石川県に対し内灘砂丘の一部接収という意向が伝えられたが、内灘村では全村一致で接収反対を決議。これを受け、総選挙を控えていた政府は一旦接収白紙化を発表[1]。しかし、総選挙後に成立した第四次吉田茂内閣は、同年11月25日に接収を閣議決定し[2]、地元の反対運動が再燃した。
これに対し、政府からは石川県選出の参議院議員林屋亀次郎が接収担当の国務大臣として村の当局者との間で説得に当たり、補償金1億円、使用期間四か月(1月-4月)とする妥協案がまとめられ、村議会は妥協案を賛成多数で可決[1]、12月2日に条件付き接収が閣議決定された[3]。
翌1953年に鉄板道路や監視所・弾薬庫などが建てられ、試射開始後は村の漁獲量は激減し試射の騒音も激しくなったことから地元住民の反対は強く[1]、さらに永久接収の話が浮上してきたこともあり、地元住民のみならず、北陸鉄道労働組合も反対運動に加わった[4]。
1953年(昭和28年)4月に行われた第3回参議院選挙で林屋が落選[5]。接収反対を掲げた井村徳二が林屋を破って当選した。当時井村は金沢市片町で大和百貨店を経営しており一方林屋も同市武蔵ヶ辻で同業の丸越百貨店を経営していたことから『武蔵大和の日本海決戦』という言葉で白熱した選挙戦となった[1]。この選挙結果を受けて、使用期間4か月とした予定どおり、4月30日に試射は終了した[4]。
しかし、政府は6月2日に「試射場の再使用」と「内灘砂丘の永久接収」を閣議決定[4]。北陸鉄道労組執行部が48時間の軍事物資輸送の拒否を指示する[1]など、反対運動はさらに激化した。
これらの動きを受け、内灘村当局は「接収の補償で砂丘地開発や河北潟干拓を実現する」などの条件付妥協案を模索する方向に考えを転換し、9月5日の村全員協議会で、条件付きの接収に向け、正式に政府と交渉することを決議、9月14日には、「アメリカ軍の試射場使用は3年以内とすること」、「試射場が不要となった場合は内灘砂丘を早くに村へ払い下げること」を条件に国と合意した[6]。
その後、1957年1月31日に試射場が返還され[7](正式返還は同年3月30日[2])、アメリカ軍が撤収したことで闘争は終息したが、「鉄板道路」や、後述の着弾地観測場遺跡などに試射場時代の面影が残る。
なお、この運動に際して、元陸軍大佐で当時衆議院議員であった辻政信が闘争を支援していたという写真が現存している[8]。「辻先生が来た」と皆の意気が上がったが、夜になると「寒くなるから皆さん下がって下さい」と皆を座り込みから遠ざけ、辻を信用した皆は言うとおりにした。辻は新聞記者も遠ざけ、単身米軍の高官と話をして戻ってきた。そのまま寝ていたが、翌朝に砲撃が始まった。流石に砲弾の下に誰も行けない状態で、ここで辻は「始まってしまっては仕方ない。私は国会で闘争を続けます」と帰っていった[9]。