内田一作

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内田一作(うちだ いっさく、1928年5月28日[1][2][3] - 1983年7月21日[1][3])は、日本の映画監督脚本家京都府出身[1][3]日本映画監督協会会員。

日活時代

1928年(昭和3年)5月28日、映画監督内田吐夢の長男として、京都市に生まれる。幼少時より極東キネマ大都映画の子供向け連続時代劇映画に魅せられる。

1946年(昭和21年)、早稲田大学専門部工科を卒業[1][2][3]。多数の映画制作プロダクションの現場で経験を積む[3]

1954年(昭和29年)、活動再開した映画会社日活に入社[1][2][3]冬島泰三関喜誉仁マキノ雅弘らに助監督として師事[1][3]。時代劇映画に多数関わる[3]

1956年(昭和31年)、『朝やけ決戦場』(マキノ雅弘監督)で関喜誉仁と共同脚本。

1962年(昭和37年)、『機動捜査班 港の掠奪者』(小杉勇監督)の脚本を担当。

1963年(昭和38年)、『機動捜査班 警視十三号応答なし』(小杉勇監督)で「原作」クレジット。

1965年(昭和40年)、劇場作品の現場から日活のテレビ部に移り、テレビドラマ『絶唱』(TBS)に参加[1][2][3]。テレビ番組の監督となる。

1966年(昭和41年)、『魚河岸の石松』(日本テレビ)に監督として参加[1]

1971年(昭和46年)、『志津という女』(フジテレビ)に監督として参加[1]。邦画斜陽を受け、日活本社はロマンポルノへ路線変更。社内の混乱からテレビドラマの受注が難しくなり、内田らテレビ部員も待機を余儀なくされる。

東映生田スタジオへの参加

この夏、東映のテレビ番組制作スタジオ東映生田スタジオ所長に就任していた弟の内田有作が、見かねて同スタジオ作品『仮面ライダー』(毎日放送)への参加を誘った[1][3]。内田もこれを受けて日活を退社し、東映生田撮影所の演出スタッフに加わる[1][2]。第28話「地底怪人モグラング」、第30話「よみがえる化石 吸血三葉虫」を監督[1][2]

1972年(昭和47年)、日活での時代劇経験を買われ、「時代劇版仮面ライダー」として毎日放送と東映が制作したテレビ時代劇『変身忍者 嵐』の企画立ち上げから参加。伊上勝と考証資料を揃えて、本編のメイン監督をこなす。

1973年(昭和48年)、テレビ番組『ロボット刑事』(フジテレビ)、『仮面ライダーV3』(毎日放送)に参加。『仮面ライダーV3』では後半部を担当[4]。以後、『仮面ライダーX』、『仮面ライダーアマゾン』、『仮面ライダーストロンガー』と、東映生田スタジオの「仮面ライダーシリーズ」すべてに監督参加する[1][3]

1975年(昭和50年)、テレビ番組『アクマイザー3』(NET)に監督参加。

1976年(昭和51年)、テレビ番組『ザ・カゲスター』、『超神ビビューン』(NET)に監督参加。劇場版『ザ・カゲスター』を監督。

1977年(昭和52年)、テレビ番組『大鉄人17』(毎日放送)に監督参加。これを最後に東映生田スタジオから離れ、「これからはビデオの時代が来る」として、VTR業務を開始した「日本ソフトウェアーズ」に移籍[1][3]。企業向けビデオの制作に関わる。

1982年(昭和57年)、秋に身体の不調を訴え緊急入院。末期の胃癌と診断される[1]

1983年(昭和58年) 7月21日、闘病の末に死去[1][3]。55歳没。葬儀では、内田が精魂を傾けた「仮面ライダー」や「変身忍者嵐」の人形が棺に入れられ、共に荼毘に付された[1]。戒名は「静寂院釋一道[1]」。墓所は東京都杉並区永福築地本願寺和田堀廟所

人物・エピソード

脚注

参考文献

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