冷家驥 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生: 1888年(清光緒25年)[1]死去: 没年不明(1945年8月時点では存命)出身地: 清山東省登州府招遠県 [1]職業: 実業家・政治家冷家驥 プロフィール出生: 1888年(清光緒25年)[1]死去: 没年不明(1945年8月時点では存命)出身地: 清山東省登州府招遠県 [1]職業: 実業家・政治家各種表記繁体字: 冷家驥簡体字: 冷家驥拼音: Lěng Jiājìラテン字: Leng Chia-chi和名表記: れい かき発音転記: ロン・ジアジーテンプレートを表示 冷 家驥(れい かき、1888年 – 没年不明)は、中華民国の実業家・政治家。字は展麒。北京実業界の有力者である一方、冀察政務委員会 、北平治安維持会、中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 曁南学校と南洋法政学校を卒業。中国農工銀行総経理、銀行同業公会委員等を歴任した[1]。1928年(民国17年)から1935年(民国24年)まで8年にわたり冷家驥は北平市商会主席を務め、また北平市参議会副議長も兼任している[2]。 1935年(民国24年)12月21日、冷家驥は冀察政務委員会委員に特派され[3]、翌1936年(民国25年)1月には同委員会経済委員となる[1]。1937年(民国26年)4月2日、冀察政務委員会各職を辞任した[4]。盧溝橋事件勃発後に日本軍が北平(北京)を占領すると、冷は北平市商会の指導者の1人として鄒泉蓀らと共に戦災対応に尽力した。同年7月30日に江朝宗を委員長とする北平治安維持会が成立し、冷は6人の常務委員の1人となった[5][注 1]。ただし、北平治安維持会は単純な日本側の傀儡組織となったわけではなく、一定の時期までは国民政府側の張自忠(当時、天津市長)とも連絡を取り合い事態収拾に動いていた、との指摘もある[6]。 1937年12月14日、中華民国臨時政府が創設されると北平治安維持会は解散され、北京特別市公署へと改組された。翌1938年(民国27年)1月7日、冷家驥は行政委員会参議に任命されている[7]。汪兆銘政権成立と共に臨時政府が華北政務委員会に改組された後の1940年(民国29年)9月12日、冷は華北政務委員会委員に特派された[8]。1941年(民国30年)8月24日には華北防共委員会総務処長を兼任している[9]。1943年(民国32年)11月11日、華北政務委員会が改組された際に冷は委員を罷免された[10][注 2]。 汪兆銘政権崩壊後における冷家驥の動向は不詳である[注 3]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 常務委員の残る5人は、呂均・鄒泉蓀・周履安・周肇祥・潘毓桂。 ↑ この改組に伴う華北政務委員会委員や総署幹部の罷免については、公報上に記載されていない。 ↑ 中国語版wikipediaによると、漢奸として逮捕された後、1957年に死去。 出典 1 2 3 4 尾崎監修(1940)、375頁。 ↑ 張(2009)、114頁。 ↑ 国民政府令、民国24年12月21日(『国民政府公報』〈蔣介石政権〉第1919号、令2頁)。 ↑ 国民政府令、民国26年4月2日(『国民政府公報』〈蔣介石政権〉第2318号、令1頁)。 ↑ 『外交時報』83巻4号通号785号、昭和12年8月15日、外交時報社、185頁。 ↑ 張(2009)、118頁。 ↑ 『日本経済年報』第31輯、昭和13年、東洋経済新報社、243頁。 ↑ 国民政府令、民国29年9月12日(『華北政務委員会公報』第25-30期合刊、民国29年10月、国府1頁) ↑ 『同盟旬報』5巻24号通号151号、昭和16年9月10日、同盟通信社、20頁。 ↑ 「華北政務委員会改組」『外交時報』108巻5号通号936号、昭和18年12月1日、外交時報社、70頁。 参考文献 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 張静「盧溝橋事変後北平市商会的社会活動」『抗日戦争研究』2009年第2期、中国社会科学院近代史研究所・中国抗日戦争史学会、113-125頁。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。表示編集 この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。表示編集 Related Articles