冷泉為広
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文明9年(1477年)、従三位に叙位。明応6年(1497年)に父為富が死去したのち、上冷泉家の当主として歌壇の重鎮となる[1]。 文亀元年(1501年)に正二位に昇り、永正3年(1506年)に権大納言兼民部卿に至る。11代将軍・足利義澄の室町幕府・相伴衆を務め、永正5年(1508年)に権代納言に昇進するが、同年義澄が将軍職を追われると、それに従って出家して宗清と号した[1]。能登国守護の能登畠山氏と親しく、同国に長らく在国し、大永6年(1526年)に同地で77歳で死去[2]。
『為広卿集』『為広詠草』(『清玉集』とも)などの歌集が伝わる[1]ほか、越後・能登・駿河など各地を訪れた際に記した自筆本『冷泉為広下向記』が現存している[3]。
文献における記載
『耳嚢』巻之一「為広塚の事」に以下の記述がある。
- 加賀・能登の境に、冷泉為広の歌塚といへる物有し由。左に記す。
- 季世尓残牟
- 為広塚加能
- 跡動無建碑
- 如斯にて歌に詠じ侍れば、
- すゑの代に残さんがため広塚のあと動ぎなくたつる石ふみ