出浦盛清
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生涯
天文15年(1546年)、信濃埴科郡出浦[注釈 2]にて、清和源氏・信濃村上氏の一族である出浦清種の次男として誕生したとされる。
天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破(三ツ者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国人はほぼ全員が長可を裏切ったが、昌相は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近と共に吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡原町[注釈 3]に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。
子・幸久は松代藩で1000石を領する家老となっている。