団原古墳

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所属 有・大草古墳群
所在地 島根県松江市山代町
位置 北緯35度25分47.40秒 東経133度5分29.15秒 / 北緯35.4298333度 東経133.0914306度 / 35.4298333; 133.0914306座標: 北緯35度25分47.40秒 東経133度5分29.15秒 / 北緯35.4298333度 東経133.0914306度 / 35.4298333; 133.0914306
形状 不明
団原古墳
移築石室(名古屋城御深井丸内)
所属 有・大草古墳群
所在地 島根県松江市山代町
位置 北緯35度25分47.40秒 東経133度5分29.15秒 / 北緯35.4298333度 東経133.0914306度 / 35.4298333; 133.0914306座標: 北緯35度25分47.40秒 東経133度5分29.15秒 / 北緯35.4298333度 東経133.0914306度 / 35.4298333; 133.0914306
形状 不明
埋葬施設 出雲型石棺式石室
出土品 須恵器
築造時期 6世紀末-7世紀初頭
史跡 なし
地図
団原古墳の位置(島根県内)
団原古墳
団原古墳
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有・大草古墳群の主な古墳

団原古墳(だんばらこふん)は、島根県松江市山代町にあった古墳。有・大草古墳群を構成した古墳の1つ。現在では墳丘の大部分は失われ、石室は名古屋城内に移築されている。

島根県東部、意宇平野南西隅の低丘陵(標高23メートル)上に築造された古墳である。かつては墳丘が流失して石室が露出する状態であったが、昭和期に石室が解体されて名古屋城御深井丸内へ移築されており、現地では1988年昭和63年)に発掘調査が実施されている。

墳形は明らかでない。現在は長径約40メートル・短径約25メートル・高さ約2メートルの楕円状の高まりが残り、発掘調査では西側墳裾が確認されている[1]。墳丘外表の調査では墳裾から須恵器(子持壺など)が出土している[1]。埋葬施設は出雲型石棺式石室で、南西方向に開口したとされる。玄室・羨道から構成され、玄室部分は名古屋城内に移築されている。玄室が一枚石の組み合わせで家形石棺状に構築された石室であり、出雲地方東部に分布する同様の出雲型石棺式石室の代表例の1つになる。石室内は盗掘に遭っており、副葬品は詳らかでないが、発掘調査では羨道部付近で須恵器の出雲型子持壺・大甕が出土している。

築造時期は、古墳時代後期-終末期6世紀末-7世紀初頭頃と推定される[1]。付近では岡田山1号墳御崎山古墳岩屋後古墳に後続する時期に位置づけられる。出雲地方東部では、山代・大庭古墳群(山代二子塚古墳山代方墳など)の規模が突出しており、大草町周辺の古墳の被葬者はその大首長を補佐する立場にあったと想定される。

遺跡歴

  • 1918年大正7年)、梅原末治が学会に紹介。石室実測図の報告(当時には原位置で露出)[1]
  • 1936年昭和11年)、名古屋の古美術商の長谷川長宜堂が石室を購入。その後解体されて馬潟駅(現在の東松江駅)に野積み[2]
  • 1940年(昭和15年)、名古屋の笹島駅まで石室石材を汽車輸送、駅から中村貫之助邸まで牛車輸送、邸内で保存[2]
  • 戦後、名古屋城天守の再建運動。機運醸成のため御深井丸に茶席整備の計画、茶席庭園へ多くの石造物の寄贈[2]
  • 1949年(昭和24年)、長谷川祐之が石室を名古屋市へ寄贈。米軍トラックで運搬され、名古屋城大天守礎石展示位置に設置[2]
  • 1959年(昭和34年)、名古屋城天守再建の際に御深井丸に石室を移動[2]
  • 1987年(昭和62年)、出雲考古学研究会による石室実測図の報告[2]
  • 1988年(昭和63年)
    • 水谷盛光が長谷川祐之への聞き取り調査を報告[2]
    • 現地発掘調査(島根県教育委員会、1989年に報告)[3]
  • 2024年令和6年)、石室三次元計測図の報告(大村陸・磯貝龍志)[2]

埋葬施設

埋葬施設としては出雲型石棺式石室が構築されており、南西方向に開口したとされる。玄室・羨道から構成されたが、現在では玄室のみ名古屋城御深井丸内に移築されている。石室の規模は次の通り[2]

  • 玄室:長さ約1.9メートル、幅約2.6メートル、高さ約1.9メートル
  • 羨道:長さ不明、幅約0.9メートル、高さ約1.3メートル(玄室前壁の刳り込みからの推定値)

石室の石材は大草周辺産の角礫凝灰岩。玄室の平面形は横広の長方形で、奥壁・側壁・前壁はいずれも板状に加工した一枚石による。前壁は、正面中央やや左寄りを幅0.6メートル・高さ0.7メートルの長方形に刳り抜いて玄門とし(刳り抜き玄門)、外面には閉塞石を受けるための刳り込みを施す。天井石も一石で、内面は平坦であるが、外面は家形に加工されており(現在は左右逆転の状態で保存)、妻部・平部に縄掛突起の痕跡が認められる。羨道は、大正期には西側の石材2枚や転落天井石が残存していたといい、石室跡地付近で凝灰岩の一枚石が確認されている[1][2]

古くから開口したため、石室内の副葬品は詳らかでない。発掘調査では羨道部付近で須恵器の出雲型子持壺約7個体・大甕4個体以上が出土しており、羨道部付近に置かれたとみられる[1]

関連施設

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

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