分散認知

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提唱者 エドウィン・ハッチンズ(Edwin Hutchins)
提唱時期 1990年代
主要著作 Cognition in the Wild(1995年)
分散認知
Distributed Cognition
認知が個人の脳内にとどまらず、人・道具・環境に分散されるという認知科学の理論的枠組み
基本情報
提唱者 エドウィン・ハッチンズ(Edwin Hutchins)
分野 認知科学認知人類学ヒューマンコンピュータインタラクション
提唱時期 1990年代
主要著作 Cognition in the Wild(1995年)
関連概念 状況的認知拡張認知活動理論具身化認知

分散認知(ぶんさんにんち、英語: Distributed Cognition、略称:DCog)とは、認知過程が個人の脳内にとどまらず、人々・道具・人工物・環境にわたって分散されるという考え方を核とする、認知科学の理論的枠組みである。

認知人類学者エドウィン・ハッチンズ(Edwin Hutchins)がカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)における1980年代後半から1990年代にかけての研究を通じて体系化した[1]。従来の認知科学が「認知は個人の頭蓋骨の内側に存在する」と想定してきたのに対し、分散認知は認知の単位を個人を超えた社会・技術システム全体へと拡張する点で根本的な転換をもたらした[2]

分散認知は、認知過程の分析単位を個人から、人・道具表象メディアが相互作用するシステム全体へと移行させる枠組みである[3]

ハッチンズによれば、記憶意思決定推論学習などの認知過程は、個人の内部処理にとどまらず、

  1. 社会集団のメンバー間
  2. 内部表象と外部表象の間
  3. 時間的に異なる状態の間

という三つの次元にわたって分散される[4]

ジャン・ノーマン(Zhang & Norman, 1994)は、分散認知アプローチを特徴づける三つの主要な構成要素を定式化した[5]

相互作用の表象への情報の具現化
(Embodiment of information)
認知は、個人の頭の中だけでなく、道具記号身体的配置など相互作用の媒体に埋め込まれた表象の中にも存在する。
表象状態のメディア間伝播
(Propagation of representational states across media)
認知過程は、ある媒体から別の媒体へと表象状態が変換・伝播していく過程として記述できる。
コックピットでの速度管理や航法チームの作業がその典型例である。
認知過程の内外的調整
(Internal and external coordination)
個人内部の表象と、道具・環境・他者に外在化された表象が動的に連動することで、認知システム全体の機能が実現される。

背景・開発経緯

古典的認知科学への批判

20世紀後半に発展した古典的認知科学は、認知を個人の頭蓋骨の内側で行われる情報処理として捉え、記号処理や後のコネクショニズムを問わず、「個人の皮膚や頭蓋骨の内側」に認知の境界を設定してきた[6]

しかしハッチンズは、この前提が人間の認知の実態を見誤らせると主張した。人間の認知は常に、複雑な社会文化的世界の中に「状況づけられて」(situated)おり、その文脈から切り離して理解することはできないというのがその核心的な論点である[7]

ハッチンズによる認知民族誌

ハッチンズは1980年代後半、アメリカ海軍の艦船「USS Palau」における航法実践を長期にわたって民族誌(エスノグラフィ)的に調査した。その結果、艦船の位置測定・進路計算という複雑な認知作業は、船長・航法担当員・計測機器・海図・手順書といった要素が緊密に連携するシステム全体によって遂行されており、いかなる個人の頭脳も単独でその認知を完結させてはいないことを明らかにした[8]。この知見を基盤として、ハッチンズは分散認知の理論を体系化した。

理論の知的系譜は多岐にわたる。レフ・ヴィゴツキーの文化歴史的心理学、ジェームズ・ギブソンの生態学的心理学(アフォーダンス概念)、システム理論サイバネティクスなどが主要な影響源として挙げられる[9]

主な内容・特徴

分析単位の拡張

分散認知の最も根本的な特徴は、認知の「分析単位」(unit of analysis)を個人から社会技術システム全体へと拡張することにある。ホーラン・ハッチンズ・カーシュ(Hollan, Hutchins & Kirsh, 2000)によれば、「ある過程が認知的であるのは、それが脳内で起きるからではなく、認知過程に共同参加する諸要素の機能的関係に基づく」と定式化される[10]。したがって、艦船の操舵ブリッジやジェット機のコックピットのような社会技術システムが、単一の分散認知システムとして記述される。

表象の伝播と変換

分散認知において、認知過程は「表象状態のメディア間伝播」として記述される。例えばコックピットでの速度管理において、速度情報は機長の記憶(内部表象)・速度計の目盛り・操縦桿の位置・クルーとのコミュニケーションという複数のメディアを順次変換されながら伝播する。この過程を追跡することで、認知システム全体の機能と設計上の課題が明らかになる[11]

内部表象と外部表象

ジャン・ノーマン(Zhang & Norman, 1994)は、分散認知システムを「内部表象」(individual minds の内側にある知識・構造)と「外部表象」(環境・道具・人工物にある知識・構造)の組み合わせとして定式化した[12]。外部表象は単なる「記憶の補助」ではなく、認知過程そのものの構成要素であり、タスクによっては外部表象なしにはそのタスク自体が成立しないことを示した。

社会的分散認知

ガブリエル・サロモン(Salomon, 1997)は、社会的次元での分散を「共有認知」(shared cognition)と「オフロード認知」(off-loading)の二種に区別した。共有認知は会話などの共同活動を通じて知識が人々の間で共有・変容していく形態であり、オフロード認知は精神的処理の一部を道具や環境に外在化することによって個人の認知負荷を低減する形態である[13]

認知民族誌の方法

分散認知の研究手法として「認知民族誌」(cognitive ethnography)が中心的な位置を占める。自然環境の中で実際の作業実践を長期にわたり観察し、人・道具・情報が相互作用する過程を詳細に記録する。この手法は、従来の実験室実験が見落としてきた「野生の認知」(cognition in the wild)の実態を明らかにするために設計された[14]

応用領域

ヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)

ホーラン・ハッチンズ・カーシュ(2000)は、分散認知をHCI研究の新たな理論的基盤として明示的に提唱した[15]。コンピュータとそのユーザインタフェースを「認知の外部」として位置づけるのではなく、ユーザと道具が形成する分散認知システムの一部として設計することで、より効果的なインタラクションデザインの設計が可能になると論じた。ネットワーク化されたコンピューティング環境においては、単一デスクトップを想定した従来のHCIモデルでは不十分であり、分散認知の枠組みが特に有効であることが指摘されている。

航空・安全工学

旅客機のコックピット航空交通管制の場面は、分散認知研究の代表的フィールドの一つである。飛行機の離着陸を安全に管理する認知は、操縦士・副操縦士・管制官・各種計器・センサー・手順書にわたって分散されており、いかなる単一の人間や機器も単独でその認知を完結させることはできない[16]。この観点から安全工学や事故分析に分散認知が応用されており、事故の原因を個人のエラーに帰属させるのではなく、システム設計の問題として把握する視座を提供している。

教育・コンピュータ支援協調学習(CSCL)

分散認知は、学習を「思考エージェントが人工物と動的に相互作用するシステムにおける知識の発展」と捉える学習理論として、遠隔教育やコンピュータ支援学習(CSCL)の分野に広く応用されている[17]。CSCLにおいては、学習プラットフォームが共通の記憶・協働空間・認知的人工物として機能し、個人の認知能力を超えた知識構築を可能にすると理解される[18]

コンピュータ支援協調作業(CSCW)および組織研究

分散認知は、組織における情報フローと認知アーキテクチャの関係を分析する枠組みとしてCSCWにも応用されている。社会組織の構造が情報の流通パターンを規定し、その情報フローが集合的な認知アーキテクチャとして機能するというハッチンズの見解は、組織設計やデジタル作業環境の最適化に実践的示唆を与えている[19]

関連する理論との比較

分散認知は、状況的認知(situated cognition)・拡張認知(extended mind)・具身化認知(embodied cognition)・活動理論(activity theory)と多くの問題意識を共有しつつも、独自の位置を占める。活動理論(AT)との比較では、ともに認知の社会・文化的文脈を重視し、民族誌的データを基盤とするが、分散認知は表象状態の伝播と変換という情報処理的概念を保持する点で活動理論と区別される[20]。また、ドナルド・ノーマンのアフォーダンス理論と密接に連動しており、ジャン・パテル(Zhang & Patel, 2006)はアフォーダンスを分散表象の一形態として再定式化している[21]

主要文献

  1. Cognition in the Wild — Hutchins, Edwin (1995). MIT Press. ISBN 978-0-262-58146-2.(分散認知理論の主著。艦船航法の民族誌的研究を通じて理論を体系化)
  2. How a cockpit remembers its speeds — Hutchins, Edwin (1995). Cognitive Science, 19(3), 265–288.(コックピットを分散認知システムとして分析した代表論文)
  3. Distributed Cognition: Toward a New Foundation for Human-Computer Interaction Research — Hollan, J., Hutchins, E., and Kirsh, D. (2000). ACM Transactions on Computer-Human Interaction, 7(2), 174–196.(分散認知をHCIの理論的基盤として位置づけた画期的論文)
  4. Representations in Distributed Cognitive Tasks — Zhang, J. and Norman, D. A. (1994). Cognitive Science, 18(1), 87–122.(内部表象と外部表象の枠組みを定式化)
  5. Distributed Cognitions: Psychological and Educational Considerations — Salomon, G. (Ed.) (1993). Cambridge University Press.(分散認知の教育的応用を論じた論文集)
  6. Distributed cognition in an airline cockpit — Hutchins, E. and Klausen, T. (1996). In D. Middleton & Y. Engeström (Eds.), Cognition and Communication at Work (pp. 15–34). Cambridge University Press.

脚注

関連項目

外部リンク

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