前川芳男
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横浜市立桜丘高等学校から専修大学、興亜電工、横浜ナショナルサービスを経て1967年パシフィック・リーグ審判部入局。後に審判部副部長となった五十嵐洋一(1998年退職)とは同期生である。審判員袖番号は25(1977年初採用から。ただし、審判員指導員に転じた1998年以降は空き番。当時パ・リーグでは審判は指導員に転じると袖番号を返上するという暗黙のルールがあったため)。
順調にキャリアを積み、1978年から1995年までほぼ毎年、パリーグの審判の代表として日本シリーズの審判を務め、そのうち1979年は江夏の21球で有名となった第7戦の球審を務めたり、1988年の10.19第2試合で球審を務めたりして後年にも語り継がれている。1995年審判部長就任。1998年4月7日で現役と同時に部長職も退き指導員に転任したが、2005年1月1日付で指導員兼任として部長再就任。引退後に部長として復帰したのは異例である。
2006年からは指導員を返上し、審判部長としての業務に専念した。2010年セ・パ審判部の統合により、部長職を返上し特命顧問に就任。同年特命顧問を退職。
引退後はプロ野球マスターズリーグで活躍していた。
2023年、江本孟紀のYouTubeチャンネル「エモやんの、人生ふらーりツマミグイ」に出演し、審判員時代のエピソードを披露した[1][2][3]。
前川とマスク
- 前川がインサイドプロテクターに変更したのは1986年から。変更してしばらくは昔ながらのバーマスクで球審をしていたが、マスクも途中からフレームマスクに変更。前川愛用のフレームマスク上部にはビニールテープが巻かれてある。本人曰く「日よけと雨よけ、ナイター設備の光でボールが見え難くなるのを防ぐ為に巻いてある。」との事である。