前田武四郎
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幼少期
慶応3年4月11日(グレゴリオ暦1867年5月14日)、前田武平の次男として[2]越後国北蒲原郡堀越村大野地[3](現阿賀野市)で生まれた。実家は裕福な農家であったが[4]前田は郷里で農業を続けることを望まず、1882年(明治15年)に親に無断で上京し、中村正直の同人社に入塾。親もやがて軟化して遊学を許し、前田は2年後に学業を終えて一度帰郷するが、給費付きの学校である電信修技学校のことを知り、1884年(明治17年)に再び上京、入学した[5]。1887年(明治20年)2月に同校を卒業すると逓信省に入省した[5]。
電気技師として
この当時、電気が普及の兆しを見せ始めたが、電気技術に長けた人物が不足していた。そこで前田は1888年(明治21年)に逓信省を依願退官し、当初は三井物産の技師であった南部金次郎とともに電気製品の輸入業を始めた[6]。この事業は失敗したため、前田は三井物産に入社して紡績工場向けの電気敷設に取り組んだ[5]。その後、1889年(明治22年)には逓信省時代の上司であった志田林三郎の斡旋により[7]設立されたばかりの日本電燈に転職した。
この頃、アメリカで起きていたいわゆる電流戦争(送電において交流・直流のどちらを用いるかの論争)が日本にも波及していた。日本の電気工学分野の重鎮であった藤岡市助を擁する東京電燈が直流を推していたのに対して、大阪電燈の技師長で実質的経営者でもあった岩垂邦彦は交流送電を主張していた。前田は1889年11月の電気学会通常会において、藤岡を含む多勢の直流推進派の前で交流の技術的利点に関する報告を行った[8][9]。この姿勢は前田の気骨を業界に知らしめる契機となった[10]。また、交流賛同者が少なく苦境に立っていた岩垂はこの出来事を伝え聞いて感銘を受け[6][11]、これが後年の日本電気共同創業に繋がる。
日本電燈は前田の提案により交流方式を採用していた[12]。東京電燈と日本電燈の過当競争を危ぶんだ三井物産の調停により、翌1890年(明治23年)1月に両社は合併し(名称は東京電燈)[12]、前田は引き続き東京電燈の技師として活動した[13]が、1893年(明治26年)には横浜のコッキング商会に移籍した[14]。
1894年(明治27年)、北京の万寿山離宮に電灯を敷設するため、清国政府の招きで北京へ向かったが、日清戦争が始まったため4ヶ月の滞在を経て小村壽太郎公使とともに帰国した[15]。同年10月には小樽の電力会社から招聘され、冬の厳しい気候のなか同地の電灯敷設を進め、翌年1月には完工した[13]。
1896年(明治29年)、コッキング商会の経営が行き詰ったため、前田は三吉正一が経営する三吉電機工場に転職した[14]。しかし同年、コッキング商会と同じ横浜にあったヒーリング商会の薦めを受け[16]、前田は自ら日電商会を設立して電気製品の輸入業を始めた[13]。
日本電気創業
1898年(明治31年)7月、岩垂邦彦はウェスタン・エレクトリック社との合弁事業を自ら行う決意を固めたものの、東京での事業に不慣れであることに加え、大口発注元と目される逓信省の入札資格を持っていなかった。そのため前田を招き、日電商会の入札資格を活用することと、経営面の采配を求めた[17]。日電商会の業績は上昇傾向にあり[18]、またヒーリング商会への恩義があったものの、岩垂との共同事業に大きな可能性を感じて申し出を受け入れ、岩垂4万円・前田1万円の出資と双方の持つ事業を移譲することによって[19]同年8月31日[20]に日本電気合資会社を創立した[3]。「日本電気」という社名を提案したのは前田であった[20]。前田は日本電気の販売部長として、"Better Products, Better Service"というスローガンを掲げ、ただ生産するだけでなく品質管理や保守の徹底を行った[21]。
この当時、日清戦争に伴う好況の反動としての不況により、かつて前田が所属していた三吉電機工場が破綻の危機に瀕していた[22]。三吉はかつて電流戦争で岩垂と対立した藤岡市助に深い恩義を持つ間柄であったが、当時藤岡が海外渡航中であったため、前田は大きな支障なく三吉との譲渡交渉をまとめ、工場は日本電気の所有となった[23]。
1899年(明治32年)7月、いわゆる不平等条約の解消とともに会社法が改正され、ウェスタン・エレクトリックからウォルター・T・カールトンらを経営陣に迎えて[注釈 1]日本電気株式会社が設立された。前田は監査役に任じられ[26]、その後の生涯にわたってその任にあった[27]。1902年(明治35年)には編集兼発行人として、日本電気月報(後のNEC技報)を創刊した[28][29]。
各種事業への参画
前田は日本電気以外にも様々な事業に加わった。1905年(明治38年)には前年に設立された日本乾電池製造の監査役に就任した[30]。1907年(明治40年)には、工業分野のトピックを広く扱っていた『工業雑誌』の経営を引き受け、合資会社工業雑誌社を設立し無限責任社員となった[31][注釈 2]。1917年(大正6年)には東京護謨工業の設立に参画し、取締役となった[33]。
晩年
1919年(大正8年)頃、東京府北多摩郡小金井町に転居[34][注釈 3]。1921年(大正10年)頃には武蔵野会に入会した[35]。同時期に三楽荘と称する邸宅を建設した(後述)。
この頃には浮世絵の蒐集家として知られており、伊勢屋辰五郎が1920年(大正9年)に頒布した『東都浮世絵数寄者番附』[36]にも名前が挙げられている。特に江戸名所絵を好んだという[3]。
1927年(昭和2年)、ローマ字ひろめ会の常務評議員に選任され[37]、ローマ字書籍の発行支援[38]や事務所貸与[39]など、ローマ字論の活動を援助した。
1930年(昭和5年)12月31日、三楽荘で脳溢血を発症。その後肺炎を併発し、1931年(昭和6年)1月21日午後3時に死去[3]。同月24日に芝白金今里町の自宅で葬儀が営まれ、多磨霊園に埋葬された。