生家の押小路家は右大臣三条西実条の孫である押小路公音(閑院流押小路家の祖、初名は公起)が創設した三条西家の分家で、公音の二男・前田玄長は実条の曾孫にあたる。
三条西実条は、安土桃山時代の慶長期から江戸時代初期の寛永期にかけて活躍した公卿で、3代将軍徳川家光の時に権大納言となり、慶長19年(1614年)に武家伝奏の重職に任じられた。その後、中宮大夫、内大臣を歴任し、寛永9年(1632年)までの18年にわたり武家伝奏も兼任し続けた、幕府とは密接な公卿である。また、春日局は三条西実条の猶妹となり、資格を得て御所に参内している。
実条の孫が押小路公音であり、玄長は曾孫にあたる。実条の正室は前田玄以の長女で、玄以の次女は堀尾忠氏(初代松江藩主)の正室である。したがって、実条と堀尾忠氏は義理の兄弟(相婿)である。
玄長が前田姓を名乗った由来について、高家前田家に伝わる秘話を明治・大正期の9代当主前田長善が、1876年(明治9年)10月に「當家ノ傳 前田姓ヲ名乗リタル理由」(「旧幕府高家ノ家格大畧」所収)として記している。その史料を基に、12代当主の前田明久が論考を『季刊山陰』第20号に掲載している。
論考によれば、玄長が前田姓を名乗った由来について長善は独自に調査研究し、父(8代前田長禮、幕末最後の当主)、養祖父(7代前田長徳)、家の古老、養祖母・歌子(実父は前田家3代隠岐守清長の八男・松平修理亮康保。後、蘭斎)より、「我家ノ前田ヲ名乗リシハ代々ノ口伝ニ残レリ」と聞いている。長善はこの口伝について、学問の師青木幸躬(あおきさちみ。国学者で神道家。教部省の大学句読所教師として皇学を教授した)と共に考証した内容を子孫に伝えるため、理由書を掲記している。
その内容は、前田家初代出雲守玄長が前田姓を名乗った理由として、「戦国大名として猛将堀尾帯刀先生吉晴の堀尾家が断絶となり、祀られなくなっていた代々の御霊を憐れんだ5代将軍綱吉が、前田玄以の系により堀尾家と連なる玄長に堀尾家の祭祀を継がせることを命じた」ということを記している。
堀尾家は3代目の忠晴が寛永10年(1633年)の死去により無嗣断絶となっているが、それから69年も後の元禄15年(1702年)に、なぜ綱吉が玄長に堀尾家の祭祀継承を命じたか、という疑問がある。しかし、論考を書いた前田明久の調査によれば、名家の堀尾家の家名再興について、綱吉は強い思し召しがあったという。実は貞享3年(1686年)3月朔日に石川憲之(堀尾忠晴の娘の嫁いだ石川廉勝の嫡子)の三男に堀尾姓を名乗らせ、堀尾式部勝明として初御目見させ、断絶から53年後に家名再興を許している。しかし、2年後の元禄元年(1688年)6月12日、勝明は子の無いまま28歳で没し、堀尾家の家名は再び断絶した。綱吉は家名再興を許した堀尾家について、その後も心に留めていたのである。そして、元禄15年8月15日に、17歳の玄長が初御目見の際に、姓については堀尾姓や実家(押小路)の姓を名乗れない(幕府ノ内規アリ)ため、三条西家と縁続きとなる前田玄以の前田姓を、諱は玄以の「玄」を採って玄長と名乗らせ、堀尾家の祭祀継承を命じられたという。
しかしそのことは、幕府の公式記録である『徳川実紀』や『寛政重修諸家譜』、「前田家系譜」、「先祖書」には触れられていない。祭祀継承の秘話は、将軍綱吉の薨去や側近の柳沢吉保の致仕とともに知る者もいなくなり、新将軍に代替わりの都度、前将軍の近習集団は解体される旧幕時代においては、いつの時代にか子孫がこの祭祀継承について咎めを受ける可能性があったのである。そのため文書にも記されず、代々当主からの「口伝」のみに残されていた事実を、長善が記した旧事録にのみ知ることができた、とする。
理由書の中に「堀尾氏ノ紋ナル分銅ヲ持槍ノ鞘ノ形ニ移シテ」という箇所があり、高家前田家では初代玄長より、持槍(行列時に籠先に立てる長槍で一本道具。鞘形で誰の行列かを見分ける)の鞘の形に堀尾家の家紋・旗印である「分銅」を用いていた。『享保武鑑』(享保20年版)の御高家衆の中に、前田家の用いた分銅形の鞘形が見える。
幕末の当主長禮(通称愿十郎)は、明治9年(1876年)3月31日に、二男の長興(ながおき。長善の弟)を分家させ、前田家の隠し姓ともいえる堀尾姓を名乗らせ、平民籍への編入を東京府庁に願い出、受理されている。旧高家の前田家本家は前田姓を、分家した二男には堀尾姓を名乗らせる形で、旧幕時代に名乗れなかった堀尾姓を再興させた。