劉三復
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聡明敏捷で、幼くして文章を作るのを得意とした。父を失って貧しく、母には回復不能な病があり、三復は乞食をして母を養ったので、長らく郷貢に選抜されなかった[1][2]。
長慶2年(822年)、李徳裕が浙江西道観察使に任じられると、三復は潤州を訪れ、自作の文章を持って拝謁した。李徳裕はその文章を見て、靴を蹴倒してかれを迎え、そのまま従事として召し出し、掌書記をつとめた。母が死去すると、三復はあやうく喪に耐えられないほど哀毀した。李徳裕は三度浙西に赴任したが、三復はいずれもこれに従った。大和7年(833年)、李徳裕が宰相となると、三復は主客員外郎として任用された。ほどなく李徳裕が宰相を退任すると、また浙西に駐在したが、三復はこれに従った。汝州刺史の劉禹錫に会い、詩を贈られた。また李徳裕に従って義成軍節度使・剣南西川節度使・淮南節度使の掌書記に赴任し、御史中丞に累進した。会昌2年(842年)、李徳裕に任用されて、諫議大夫・給事中から刑部侍郎・弘文館学士・判弘文館事に任じられた[1][3]。
会昌4年(844年)、劉稹の乱が鎮圧されると、朝廷の議論では劉従諫の妻の裴氏が裴問の妹であったことから、裴氏を赦免しようとする動きがあった。三復は法にのっとって処断するよう上奏し、聞き入れられた。ほどなく三復は病没した[4]。著書に『劉三復表状』10巻があった[5]。