劉鄴
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劉三復の子として生まれた。6・7歳で詩を賦すことができ、李徳裕に可愛がられて、その子どもたちと同席して師について学んだ。大中2年(848年)、李徳裕が左遷されると、劉鄴は寄る辺がなくなり、文章の客として江浙の地方を遊歴した。高少逸が陝虢都防禦観察使として出されると、劉鄴は陝虢都団練推官をつとめ、秘書省校書郎となった[3][4]。
咸通元年(860年)、劉瞻と高璩が要職につくと、劉鄴は推薦されて左拾遺となった。宮中に召し出されて翰林学士をつとめ、度支郎中・知制誥に転じた。中書舎人・戸部侍郎・翰林学士承旨に任じられた[5][6]。
劉鄴は崖州に左遷されて死んだ李徳裕の名誉回復を求めていたが、令狐綯が政権にあるあいだは、赦令が出なかった。懿宗が即位して、令狐綯が河中節度使として出されると、劉鄴は李徳裕への贈官を求めて聞き入れられた[5][6]。
咸通12年(871年)、劉鄴は本官のまま諸道塩鉄転運使を領した。この年のうちに礼部尚書・同中書門下平章事(宰相)となり、判度支をつとめた。中書侍郎に転じ、吏部尚書を兼ね、太清宮使・弘文館大学士を加えられた。咸通14年(873年)、僖宗が即位し、劉鄴は尚書左僕射となった。乾符元年(874年)、蕭倣と崔彦昭が政権に入ると、劉鄴と折り合いが悪く、劉鄴は宰相を退任し、検校尚書左僕射・同平章事・揚州大都督府長史・淮南節度使として出された[5][6]。
乾符6年(879年)、黄巣が淮水を南に渡ると、劉鄴は淮南節度使の任を高駢と交代して召還された。ほどなく鳳翔尹・鳳翔隴右節度使に任じられたが、病のため固辞し、尚書左僕射に任じられた。広明元年12月(881年1月)、黄巣が長安を占領すると、劉鄴は僖宗に扈従しようとして追いつけなかった。崔沆や豆盧瑑とともに左金吾衛大将軍の張直方の家に匿われたが、黄巣の兵による追捕が厳しくなったため、3人で夜間に逃亡しようとした。黄巣の兵に捕らえられ、命に従うよう脅迫されたが、病と称して応じず、殺害された[7][6]。