劉子翼

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劉 子翼(りゅう しよく、生没年不詳)は、初の官僚は小心。本貫常州晋陵県[1][2]

南朝陳の鄱陽王諮議参軍の劉興宗の子として生まれた。詩文の朗誦を得意とし、学問と品行があった。隋の大業初年、秘書監となった。河東郡柳䛒に重んじられた。非行を容赦できない性格で、同僚に短所があれば、面と向かって非難した。友人の李伯薬は「劉四がまた人を罵っても、人はみな恨まない」といつもいっていた[1][2]。隋末、沈法興大司馬・録尚書事・天門公を自称すると、子翼はその下で選部侍郎をつとめた[3][4]貞観元年(627年)、子翼に対して長安に入るよう勅命があったが、母の老齢を理由に固辞し、太宗はその母を養うことを許可した。江南大使の李襲誉はかれの至孝を嘉して、米や絹を与えて、里門に顕彰するよう上表し、その居所を孝慈里と改名した。母が死去すると、子翼は喪に服した。喪が明けると、呉王府功曹として召し出された。二度異動して著作郎・弘文館直学士となり、『晋書』の編纂に参与し、朝散大夫の位を加えられた。永徽初年、死去した[1][2]。『劉子翼集』20巻があった[5][6]

子女

脚注

伝記資料

参考文献

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