劉孝威 From Wikipedia, the free encyclopedia 劉 孝威(りゅう こうい、496年[1] - 549年)は、南朝梁の官僚・文人。本貫は彭城郡彭城県安上里。 斉の大司馬霸府従事中郎の劉絵の六男として生まれた。晋安王蕭綱の下で安北法曹を初任とし、主簿に転じた。母が死去したため、職を辞して喪に服した。喪が明けると、太子洗馬に任じられ、太子中舎人・太子庶子・太子率更令を歴任し、東宮の記録を管掌した。大同9年(543年)、白雀が東宮に集ったことから、孝威は頌を作って奏上した。その言葉はたいへん美しいものであった。太清年間、太子中庶子に転じ、通事舎人を兼ねた。侯景の乱が起こると、孝威は建康の包囲から脱出して、司州刺史の柳仲礼の西上に従ったが、安陸で病没した。 脚注 ↑ 『広弘明集』巻20「梁簡文帝法宝連璧序」によると、中大通6年(534年)当時に劉孝威は数え「年三十九」であり、逆算すると建武3年(496年)生まれとなる。 伝記資料 『梁書』巻41 列伝第35 『南史』巻39 列伝第29 典拠管理データベース 全般 VIAF WorldCat 国立図書館 ドイツ Related Articles