劉宗紀の出身地につき、殷汝耕撰『冀東紀念専刊』巻上所収「冀東防共自治政府文武簡任人員姓名略歴表」(神田著、東洋事情研究会編(1937)も、この資料に基づき同旨の記述)は「河北河間」の人としており、後述する軍人の経歴を併記している。しかし、高木翔之助『冀東政権の正体』では「湖北省出身」としており、これに従えば、同姓同名の別人の可能性がある。
なお、楊承禧ほか編『湖北通志』には、劉宗紀の出身地につき記載が無い。記載があれば湖北省出身者のため、湖北省外の人物である可能性が高い[4]。
日本に留学し、陸軍士官学校第21期(中国留学生第6期)を卒業した[4]。帰国後は北京禁衛軍参謀、江蘇都督府(後に督軍署)[注 1]参謀、馮国璋護衛司令[1]、江西督軍参謀長[注 2]、北京将軍府参軍[5][注 3]を歴任している。
1924年(民国13年)から1927年(民国16年)にかけて、劉宗紀は孫伝芳の五省聯軍総司令部で参謀長をつとめ[1]、孫が済南へ撤退した際には総参議に任命された[6]。なお、1918年9月16日に陸軍少将、1924年10月4日に陸軍中将、1926年10月9日に陸軍上将へとそれぞれ昇進している[5]。
以下の経歴については、前述のとおり同姓同名の別人である劉宗紀の可能性があるが、いったん同一人物として記述する。
国民政府成立後の1935年(民国24年)、劉宗紀は河北省政府主席・于学忠の下で保安処副処長になった[1]。
冀東防共自治政府が成立した後の1936年(民国25年)1月、劉宗紀は自治政府保安処長に任命され[1][注 4]、満洲国への修好使節となった秘書長兼外交処長・池宗墨に随従して新京へ向かった[7]。1937年(民国26年)7月29日の通州事件勃発後、8月2日には劉は北平(北京)に在り、冀東防共自治政府臨時弁事処の治安組で執務を開始した[8][注 5]。
その後は長く在野にあったと見られるが、1943年(民国32年)2月に北京特別市公署社会局局長代理となり、華北政務委員会でようやく政界復帰した[9]。同年12月、華北政務委員会内務庁警政局局長代理に転じた[10]。翌1944年(民国33年)4月、華北政務委員会内務庁民政局局長代理に移ったが[11]、8月には警政局局長代理を暫時兼任している[12]。1945年(民国34年)1月、民政局長と警政局長の双方につき辞表を提出して退官した[13]。
以後、劉宗紀の行方は不詳である。