劉寛夫 From Wikipedia, the free encyclopedia 劉 寛夫(りゅう かんふ、生没年不詳)は、唐代の官僚。字は盛之[1]。本貫は洺州永年県[2]。 劉伯芻の子として生まれた。進士に及第し、諸府の従事を歴任した。宝暦2年(826年)、入朝して監察御史となった。まもなく左補闕に転じた。陳岵が『維摩経』に注釈をほどこして進上し、濠州刺史の官を得ると、寛夫は同僚たちとともにこれに反対し、敬宗を諫めた[3][4]。 子女 劉允章(字は蘊中、鄂岳観察使・検校工部尚書、東都留守)[3][5] 劉煥章(字は文中)[3][1] 劉玄章(字は求中)[1] 脚注 1 2 3 新唐書 1975, p. 2257. ↑ 旧唐書 1975, p. 4083. 1 2 3 旧唐書 1975, p. 4086. ↑ 新唐書 1975, p. 4969. ↑ 新唐書 1975, p. 4970. 伝記資料 『旧唐書』巻153 列伝第103 『新唐書』巻160 列伝第85 参考文献 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。 Related Articles