劉度 From Wikipedia, the free encyclopedia 劉 度(りゅう ど/りゅう たく[1]、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家・武将。 この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 出生 生年不詳拼音 Liú Dù主君 曹操概要 劉度, 後漢 零陵太守 ...劉度 後漢零陵太守出生 生年不詳拼音 Liú Dù主君 曹操テンプレートを表示閉じる 正史の事跡 零陵郡太守。赤壁の戦いの翌年である建安14年(209年)、劉備が劉琦を荊州刺史とする名分で零陵郡を含む荊州南部4郡へと進攻すると、劉度は他の郡の太守(金旋・韓玄・趙範)と同様に降伏した[2]。その後は、生死も含めて動向は不明である。 『後漢書』の「度尚伝」や「南蛮伝」によると、延熹5年(162年)に発生した荊州南部から交州にかけた反乱の際の荊州刺史の名も劉度で、敗戦・逃亡の末に罰せられ、桓帝と朱穆(中国語版)により度尚と交代させられた[3][4]。仮に同一人物であるなら、47年後にも同じ地域へ太守として派遣されていたことになる。 物語の劉度 小説『三国志演義』でも零陵太守として登場するが、劉賢(版によっては「劉延」)という子がいることになっている。劉度自身は劉備軍と戦うことに消極的だったが、抗戦を主張する息子の劉賢に押されて、劉賢と大将の邢道栄を出撃させた。しかし、邢道栄は戦死し、劉賢も生け捕られたため、開城して劉備に降伏する。降伏後、劉備によって改めて零陵太守に任じられた[5]。 配下 『三国志演義』でのみの配下 邢道栄 劉賢 参考文献 『三国志』蜀書2先主伝 『三国演義』 脚注 [脚注の使い方] [1]日本語では「りゅうど」が慣用的な読み方であるが、「りゅうたく」とも読める。井波律子訳『正史三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫版、44頁では、「りゅうたく」と読んでいる)。 [2] “卷32#先主_劉備” (中国語), 三國志, ウィキソースより閲覧。 [3] “卷38#度尚” (中国語), 後漢書, ウィキソースより閲覧。 [4] “卷86#南蠻” (中国語), 後漢書, ウィキソースより閲覧。 [5] 『三國演義』第五十二回 諸葛亮智辭魯肅 趙子龍計取桂陽 (中国語), 三國演義/第052回, ウィキソースより閲覧。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。表示編集 Related Articles