劉沔

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劉 沔(りゅう べん、782年 - 846年)は、唐代軍人は子汪。本貫徐州彭城県[1]

経歴

左驍衛大将軍の劉廷珍の子として生まれた。幼くして父を失い、振武軍節度使范希朝の下で牙将となった。若くして李光顔に仕えて帳中親将となった。元和末年、李光顔が呉元済を討つと、劉沔はつねに先鋒として用いられた。呉元済の部将の董重質が騾子軍を率いて洄曲を守っていたが、劉沔はこれと白兵戦して撃破した。呉元済の乱が鎮圧されると、劉沔は李光顔に従って入朝した。憲宗に宿衛として留められ、三将軍を歴任した。塩州刺史・天徳軍防禦使となり、西北辺境で軍功を重ねた[2][1]

大和末年、河西党項羌が反乱を起こした。劉沔は天徳軍を率いてその首長を殺害し、振武軍節度使に転じた。検校右散騎常侍・単于大都護をつとめた。開成3年(838年)、党項羌がまた河西を騒がせた。劉沔は吐谷渾・契苾・沙陀3部落などの諸族1万人・3000騎を率いて、銀州夏州で党項羌を襲撃し、これを撃破した。捕虜1万ほどを得て、凱旋した。功績により検校戸部尚書を加えられた。会昌元年(841年)、回紇が飢え、烏介可汗は太和公主(憲宗の娘で、崇徳可汗の可敦)を盾に天徳軍に糧を求めた。振武軍の保大柵・杷頭峰を過ぎ、雲州朔州雁門関を侵犯した。唐の朝廷は太原府を守るため、劉沔を河東節度使・検校尚書左僕射・太原尹・北都留守に移した。劉沔は武宗の命を受けて幽州節度使張仲武と協力して回紇を討ち、太和公主を長安に帰らせた。功により検校司空に位を進めた。ほどなく滑州刺史・義成軍節度使に転じた[3][1]

会昌4年(844年)、昭義軍節度使劉従諫が死去し、弟の劉従素の子の劉稹がその喪を隠して、軍務を専断し、節度使の位を要求した。武宗は怒って、忠武軍節度使の王宰や徐州節度使の李彦佐らに命じて、沢潞南面招討使をつとめさせた。劉沔は再び河東節度使となり、沢潞北面招討使をつとめた。劉沔は張仲武と合わず、幽州に出征することになって、鄭滑節度使に移され、検校司徒に位を進めた。会昌5年(845年)、病のため洛陽に帰りたいと求め、節度使から退任して太子少保となった。会昌6年(846年)、太子太傅として致仕し、死去した。享年は65。司徒の位を追贈された[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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