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劉若愚

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劉若愚(りゅう じゃくぐ、万暦12年(1584年) - 没年不詳)は、中国明代宦官。原名は時泰泰昌帝の年号「泰昌」を避けるため、後に「若愚」と改名した[1]。大寧都司延慶左衛の出身で、本籍河南省定遠(現在の安徽省定遠県)である[2]

生涯

劉若愚は武将の家系に生まれた。父の劉応祺は遼陽協鎮副総兵まで昇進した軍人であった[2]

万暦26年(1598年)7月、奇異なを見たことをきっかけに自ら去勢し、宦官となることを決意した[2]

万暦29年(1601年)6月に入宮し、司礼監掌印太監・陳矩の配下となる。宮中では文書の筆写清書などを担当した[2]

天啓元年(1621年)、李永貞によって内直房へ異動となり、文書業務を担当するようになる。劉若愚は李永貞らが企てていた陰謀を知っていたものの、それを外部に漏らす勇気はなかった[3]

その後、魏忠賢一派(魏党)が失脚すると、劉若愚は南京明孝陵へ流され、菜園の管理に従事させられた[2]

崇禎元年(1628年)には、周起元東林党人士の冤罪事件が再審理された。

この際、李永貞は斬首刑(斬立決)を宣告され、劉若愚はその共犯とみなされ、「斬監候(秋審・朝審を待つ死刑囚)」の判決を受けた。 一方、李実は「浄軍(宮廷雑役)」への配属を命じられ、司礼監に引き渡されて最終処分を待つこととなった[2]

劉若愚は、自らが無実でありながら重罪人とされたことを深く悲しみ、また王体乾・涂文輔らが罪を免れたことに強い憤りを抱いた。

そこで獄中において、自らの潔白を訴えるために回想録・宮廷記録である『酌中志』を著した[3]

その後、崇禎14年(1641年)春、崇禎帝による天下大赦が行われ、劉若愚はようやく釈放されることとなった[4]

出典

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