劉若愚
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生涯
劉若愚は武将の家系に生まれた。父の劉応祺は遼陽協鎮副総兵まで昇進した軍人であった[2]。
万暦26年(1598年)7月、奇異な夢を見たことをきっかけに自ら去勢し、宦官となることを決意した[2]。
万暦29年(1601年)6月に入宮し、司礼監掌印太監・陳矩の配下となる。宮中では文書の筆写・清書などを担当した[2]。
天啓元年(1621年)、李永貞によって内直房へ異動となり、文書業務を担当するようになる。劉若愚は李永貞らが企てていた陰謀を知っていたものの、それを外部に漏らす勇気はなかった[3]。
その後、魏忠賢一派(魏党)が失脚すると、劉若愚は南京の明孝陵へ流され、菜園の管理に従事させられた[2]。
崇禎元年(1628年)には、周起元ら東林党人士の冤罪事件が再審理された。
この際、李永貞は斬首刑(斬立決)を宣告され、劉若愚はその共犯とみなされ、「斬監候(秋審・朝審を待つ死刑囚)」の判決を受けた。 一方、李実は「浄軍(宮廷雑役)」への配属を命じられ、司礼監に引き渡されて最終処分を待つこととなった[2]。
劉若愚は、自らが無実でありながら重罪人とされたことを深く悲しみ、また王体乾・涂文輔らが罪を免れたことに強い憤りを抱いた。
そこで獄中において、自らの潔白を訴えるために回想録・宮廷記録である『酌中志』を著した[3]。