劉詞

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劉 詞(りゅう し、891年 - 955年)は、五代十国時代軍人は好謙。本貫魏州元城県[1][2]

後梁貞明年間、魏博節度使の楊師厚に仕えて、勇猛果敢なことで知られた。晋王李存勗が魏州に入ると、劉詞はその麾下に列し、二度の河上の戦いに参戦した。後唐同光元年(923年)、効節軍使となり、剣直指揮使に転じた。ほどなく権臣に逆らって、汝州小校として出され、十数年のあいだくすぶった。清泰元年(934年)、諸道の勇猛果断な者が禁衛に召集されると、劉詞は典禁軍に入ることができた[1][2]

後晋天福2年(937年)、劉詞は侯益に従って汜水関を奪回し、楊光遠を補佐して都を平定し、奉国第一軍都虞候に累進した。天福5年(940年)、李金全安州で反乱を起こし、南唐の軍を援軍に招くと、劉詞は馬全節に従って南唐の軍1万人あまりを撃破した。奉国都校に任じられ、検校司空を加えられた。天福6年(941年)、杜重威に従って安重栄を宗城で破った。鎮陽を包囲すると、劉詞は自ら率先して雲梯に登り、功により検校司徒沁州刺史を加えられた。襄陽の安従進の乱を討つにあたって、劉詞は行営都虞候を兼ねた。安従進の乱が平定されると、劉詞は沁州団練使となった[1][2]

天福12年(947年)、後漢華北を平定すると、劉詞は奉国右廂都校となり、閬州防禦使を遥領した。郭威に従って鄴を平定し、検校太保を加えられた。乾祐元年(948年)、李守貞河中府で反乱を起こし、郭威が反乱を征討すると、劉詞は侍衛歩軍都指揮使となり、夔州寧江軍節度使を遥領し、行営馬歩都虞候をつとめ、河西に分屯するよう命じられた。乾祐2年(949年)1月、李守貞が決死隊数千を送り込んで、劉詞の陣営を夜襲すると、劉詞の部下たちはみな恐れてなすところを知らなかったが、ひとり劉詞は落ち着き払って、「これはただの小盜だ。驚くに値しない」と軍中に伝えた。を脱いでを横たえ、短い武器を持った兵を叱咤して反乱軍を撃退した。このため李守貞は意気阻喪して、再び猪突しようとしてこなかった。李守貞の乱が鎮圧されると、劉詞は功により華州鎮国軍節度使に任じられた。乾祐3年(950年)、邢州安国軍節度使に転じた[3][4]

広順元年(951年)、後周の太祖(郭威)が即位すると、劉詞は同平章事を加えられた。広順3年(953年)秋、河陽三城節度使となった。顕徳元年(954年)、世宗柴栄北漢に親征すると、劉詞は部下の兵を率いて従軍した。高平の南まで進軍したところ、樊愛能らが北から撤退するところに出会い、官軍がすでに敗北したといって、劉詞の進軍を止めようとした。劉詞は聞き入れず、北に疾駆した。世宗に称賛され、ほどなく隨駕都部署となるよう命じられ、さらに河東道行営副部署に任じられた。この年の夏、世宗が開封府に帰ると、劉詞は永興軍節度使に転じ、侍中を兼ね、京兆尹を代行した。顕徳2年(955年)冬、長安で病没した。享年は65。中書令の位を追贈された。は忠恵といった[3][4]

子の劉延欽は、北宋に仕えて控鶴廂使となった[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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