安従進

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安 従進(あん じゅうしん、生年不詳 - 942年)は、五代十国時代軍人。振武軍索葛部の出身[1]

はじめ後唐荘宗に仕えて随駕馬軍都指揮使となり、貴州刺史を遥領した。長興元年(930年)、寧国軍節度使を遥領した[2]。長興2年(931年)、保義軍節度使に任じられた[3]。長興3年(932年)、延州節度使に転じた[4]。長興4年(933年)、定難軍節度留後となった[5]。従進を夏州に送るために、大軍が動員されたが、夏州を攻め落とせず、撤退した[6]応順元年(934年)、従進は安国軍節度使に転じ、侍衛親軍馬軍都指揮使をつとめた[7]。潞王李従珂が反乱を起こすと、従進は京城巡検使となり、馮贇を殺し、朱弘昭を自殺させて、ふたりの首級を李従珂のもとに送った[8]清泰元年(同年)、河陽節度使に任じられた[9]。清泰2年(935年)、山南東道節度使に転じた[10]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、従進は同中書門下平章事を加えられた[1]。天福6年(941年)、石敬瑭が広晋府に赴き、安重栄を討つと、鄭王石重貴開封尹をつとめることとなった。先だって和凝が従進の反乱を予見して、石重貴に対策を書き残すよう石敬瑭に進言していた。従進は石敬瑭が北に赴いたと聞いて、反乱を起こした。石重貴は李建崇郭金海に従進の討伐を命じた。従進は兵を率いて鄧州を攻めたが、落とせなかった[11][12]泌州で郭金海と戦った[13]。天福7年(942年)8月、高行周襄州を攻め落とされ、従進は自ら焼け死んだ[14][15]。また子の安弘受や従進の部将や補佐役43人は開封府に送られて斬られた[16]

脚注

伝記資料

参考文献

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