劉迺

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劉 迺(りゅう だい、725年 - 784年)は、唐代官僚は永夷[1][2]本貫洺州永年県[1]

朐山県丞の劉如璠の子として生まれた。幼くして才知にすぐれ聡明で、学問に志して六経を暗記し、日に数千言した。成長すると、文章が清らかで上品であり、当時に尊重された。天宝年間、進士に及第した。ほどなく父が死去すると、劉迺は喪に服して孝行で知られた[1][2]

劉迺は剡県県尉に任じられ、会稽県尉に転じた。宣歙観察使の殷日用の下で判官をつとめた。宣撫使の李季卿の推薦により、大理寺評事となり、監察御史を兼ねた。殿中侍御史検校倉部員外郎・戸部郎中を歴任し、いずれも浙西留後をつとめた。転運使の劉晏の徴税を補佐し、劉晏に事務を委任された[3][4]

大暦12年(777年)、元載が処刑されると、劉迺は長安に召還されて、司門員外郎に任じられた。大暦14年(779年)、崔祐甫が宰相となると、劉迺は崔祐甫の推挙により給事中に抜擢された。ほどなく権兵部侍郎に転じた。楊炎盧杞が宰相となると、劉迺は醜行の多くを正そうとしたため、5年間異動しなかった。建中4年(783年)夏、正式に兵部侍郎に任じられた[5][4]

この年の冬、涇原の軍が兵乱を起こし、徳宗奉天に避難したが、劉迺は私邸で病床に臥せっており、朱泚が使者を派遣して誘ったが、病を理由に応じなかった。さらに朱泚の宰相の蔣鎮が自らやってきて誘ったが、劉迺は口が利けないふりをして、全身に灸をすえた姿を見せた。興元元年(784年)、徳宗がさらに梁州に避難すると、劉迺はそれを聞いて自らの身を床に投げうち、胸を打って天を呼び、危篤に陥って、絶食して数日で死去した。享年は60。礼部尚書の位を追贈された。は貞恵といった[6][4]

子に劉伯芻があった[6][4]

脚注

伝記資料

参考文献

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