京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年、1939年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに宮口美吉、深尾文彦(2人とものち南海軍)、乾国雄(のち阪神軍)がいる。
1940年3月15日、ライオン軍と契約し入団。二塁、三塁、遊撃を守ることができるユーティリティープレイヤーとして活躍した。打率は低かったが勝負強い打撃で8打点をマークした。同年末にライオン軍を退団。
それから10年後の1950年に読売ジャイアンツに復帰。しかし、年齢的に峠を過ぎていたこともあって、全く出場機会がないまま同年末に現役引退した。