加納孝

From Wikipedia, the free encyclopedia

カタカナ カノウ タカシ
ラテン文字 KANO Takashi
国籍 日本の旗 日本
加納 孝
名前
カタカナ カノウ タカシ
ラテン文字 KANO Takashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1920年10月31日[1]
大日本帝国の旗 大日本帝国, 東京都
没年月日 (2000-06-04) 2000年6月4日(79歳没)
日本の旗 日本, 東京都大田区 
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
ユース
日本の旗 東京府立第八中学校
1939-1945 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 早大WMW
日本の旗 東京クラブ
代表歴
1942-1954 日本の旗 日本 7 (2)
監督歴
1947-1950 日本の旗 早稲田大学
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 2000年6月4日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(左ウイング)。

左足のボールテクニックとスピードを生かしたドリブル突破が持ち味のウインガー。戦前、戦後を通じて日本代表として活躍し、インナー(現在の攻撃的MF)の岩谷俊夫とは名コンビとして知られた。

東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代の1937年1月に開催された第18回全国中等学校蹴球選手権大会に出場。卒業後は早稲田大学理工学部へ進学しア式蹴球部に所属。早大WMW(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1940年の全日本蹴球選手権大會 (第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の準優勝に貢献した。第二次世界大戦には東泉製作所に勤務する傍ら、1947年から1950年まで早稲田大学の監督を務めた。

また1955年に松永碩岩淵功らと共に東京クラブに加入。同年の第1回都市対抗選手権優勝、翌1956年も大会連覇に貢献した。

日本代表としては1942年の8月の東亜競技大会で代表デビューを飾るが、第二次世界大戦の影響により、選手キャリアを中断した。戦後1951年に日本の国際舞台の復帰が認められると代表復帰を果たし、同年にインドで開催された第1回アジア競技大会に出場。その後も1954年の第1回アジア競技大会、1954 FIFAワールドカップ・予選に出場するなど国際Aマッチ7試合出場し2得点を記録した。

2000年6月4日、東京都大田区心不全により死去した[2]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 7試合 2得点(1951-1954)
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1942003030
1943000000
1944000000
1945000000
1946000000
1947000000
1948000000
1949000000
1950000000
1951306090
1952001111
1953002020
1954420042
通算 72121193

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1951年03月07日インドの旗ニューデリー イラン△0-0(延長)二宮洋一アジア大会
2.1951年03月08日インドの旗ニューデリー イラン●2-3アジア大会
3.1951年03月09日インドの旗ニューデリー アフガニスタン○2-0アジア大会
4.1954年03月07日日本の旗東京都明治神宮外苑競技場 韓国●1-5竹腰重丸ワールドカップ予選
5.1954年03月14日日本の旗東京都明治神宮外苑競技場 韓国△2-2ワールドカップ予選
6.1954年05月01日フィリピンの旗マニラ インドネシア●3-5アジア大会
7.1954年05月03日フィリピンの旗マニラ インド●2-3アジア大会

得点数

#年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
11954年5月1日フィリピンマニラインドネシアの旗 インドネシア2-3敗戦アジア競技大会
21954年5月3日インドの旗 インド3-5敗戦

指導歴

参考文献

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI