文化5年(1808年)、久留米藩士・加藤十助の長男として生まれる。加藤家は、藩の剣術師範家として神陰流を伝える加藤田家の分家であった。11歳より加藤田新八に入門し神陰流を学ぶ。16歳で加藤田新八の娘を娶り、加藤田家の婿養子となる。
文政12年(1829年)、藩主・有馬頼徳より稽古扶持として百石を頂き、回国修行の旅に出る[1]。九州北部、山陽地方、近畿地方、伊勢、四国の19か国を7か月で回り、この間に試合をした人数は998人にのぼった[2]。
天保8年(1837年)、養父・加藤田新八が隠居し、加藤田家の家督を継ぐ[3]。また同年、星野平左衛門より揚心流鎖鎌術、深野平左衛門から秋山系揚心流の薙刀術を学んだ[4]。
翌天保9年(1838年)、立石市蔵、中山倉次郎とともに剣術修業のため、江戸で窪田清音(窪田派田宮流)へ随身することを願い出て、再び回国修行の旅に出た[5]。江戸で男谷信友(直心影流男谷派)と十本勝負で全勝、島田虎之助(直心影流男谷派)と八本勝負で全勝、6尺余(約1.8m以上)の長竹刀を使う小川八郎(小倉流)に判定勝ちした。この回国修行中、平八郎は4尺(約1.2m)の長竹刀を使って試合をしていたが、定寸の3尺3寸(約1m)の竹刀を使う千葉周作(北辰一刀流)には敗れたという。
武術だけでなく文筆にも堪能で、家督を継いだ天保8年(1837年)から明治7年(1874年)まで、毎夜、稽古の後に詳細な日記を記していた。この日記は現在は一部散逸しているが、現存分は『加藤田日記』として久留米の貴重な郷土史料となっている。また、万延元年(1860年)には、初心者への剣術指導法を記した『初学須知』を著した。この中で、自らの他流試合や剣術指導時の経験を分析して記している。
明治8年(1875年)1月15日没、享年68。平八郎の没後、息子の大介が自宅に道場を開き、加藤田神陰流剣術と楊心流薙刀術・鎖鎌術を指導した。
家督相続した天保8年(1837年)から没するまでに教えた門人は3500人を超えるという。奥免許を授けた12名の内、幕末期の名剣士の一人である松崎浪四郎、剣道範士となった梅崎弥一郎らが知られる。12名の一人である武藤為吉は、江戸に出て窪田清音に就いて修業し、千葉栄次郎、鏡新明智流第4代桃井春蔵を破って、名を上げた[6]。