劾里鉢
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| 劾里鉢(ヘリンボ) | |
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| 完顔氏 | |
| 続柄 | 景祖烏古廼次男 |
| 称号 | 世祖 |
| 出生 |
重熙8年(1039年) |
| 死去 |
太安8年(1092年)[1] |
| 配偶者 | 翼簡皇后 拏懶(ナラン)氏 |
| 次室 徒単氏 | |
| 次室 僕散氏 | |
| 次室 朮虎氏 | |
| 次室 朮虎氏 | |
| 次室 烏古論氏 | |
| 子女 | 康宗烏雅束(ウヤス)、太祖阿骨打(アクダ)、太宗呉乞買(ウキマイ)ほか |
| 父親 | 景祖烏古廼(ウクナイ) |
| 母親 | 昭粛皇后 唐括氏 |
劾里鉢(ヘリンボ)は、のちに金朝(1115年 - 1234年)を打ち立てた女真(ジュシェン)人のなかで最も勢威をほこった完顔氏の族長。烏古廼(ウクナイ)の次男。ヘリンボは、祖父の石魯(シル)と同様、10世紀から11世紀にかけて中国北部を支配した契丹(キタン)人主導の遼王朝によって、完顔氏の族長に任命された。金の初代皇帝太祖阿骨打(アクダ)および第2代皇帝太宗呉乞買(ウキマイ)の父。
第3代皇帝熙宗合剌(ホラ)が即位したのち、諱号として「聖粛皇帝」、廟号として「世祖」が贈られた。皇統4年(1144年)、彼の埋葬された墓所は「永陵」と称され、皇統5年(1145年)、「世祖 神武聖粛皇帝」と追贈された。海陵王テクナイの時代には「元祖 大聖皇帝」と改められたが、そののち、世宗烏禄(ウル)によって旧号に復された。
| 劾里鉢 | |||||||||
| 繁体字 | 劾里鉢 | ||||||||
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| 簡体字 | 劾里钵 | ||||||||
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父の烏古廼(ウクナイ)は生女真の諸部族統一にあたる主要人物であった。ウクナイは次男のヘリンボの胆勇の気質を愛し、その子孫は金朝の統治者の地位を占めた。女真の慣習では子供たちがすべて成長すると、別の宮殿に移動して住む必要があったが、ウクナイは長男の劾者(ヘテェ)と次男のヘリンボに邸宅を共有させ、ヘテェが家政の責任をすべて負い、ヘリンボには主に外事一切が託された。これがヘテェの子の撒改(サガイ)が長期にわたって国論勃極烈(国論忽魯(こくろんこつろ=グルンフル、「国務総理」に相当)の職にあり、サガイの子の粘没喝(ネメガ)が国論移賚に任じられ[2]、その一方で、ヘリンボの息子のアクダとウキマイが金の皇帝として君臨した要因となっている[注釈 1]。