北川 (大鹿村)
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北川(きたがわ)は長野県下伊那郡大鹿村大字鹿塩にあった集落。明治から大正にかけて栄え、多いときは110戸があったとされるが、昭和36年梅雨前線豪雨によって甚大な被害を受けて全戸が離村した[1][2]。
河川
歴史
元来鹿塩村(現在の大鹿村鹿塩)最北の集落は古く「北の入」と呼ばれた北入集落であった[3]。明治に入ったころの北川は鬱蒼たる森林地帯であったが1874年(明治7年)に木材業者に一帯が売却される[1][3]。まず1874年に入ったのが筑摩郡松本町の中勇、その10年後に上伊那郡藤沢村の伊藤、さらにその10年後に同郡高遠町の山十と、それぞれ10年ずつ合計30年にわたって伐採が行われた[1]。
木材の伐採が始まると良材に目を付けた3名の木地屋が近隣の南向村より移住し、伐採に従事する者や伐採跡地での農業を目的として移住したものもあって次第に北川は集落を形成した[1]。こうして河川名であった北川は次第に集落を指す言葉となった[1]。1890年(明治23年)の北川集落は25戸となり、北川耕地が公認されている[1][3]。
前述の伐採により拓かれた北川は上伊那郡の近隣村の者が開墾し、出作りを行った[1]。その後1894年(明治27年)から1895年(明治28年)頃に養蚕の需要が増したことで盛んに桑畑が開かれた[1][4]。この頃には原料が不足したことで木地屋は経木作りに従事するが、明治末期にはこの仕事も終わり、養蚕や木炭づくりに従事するようになる[1][5]。出作りに来ていた農民も北川に移住したことで、更に戸数が増加する[1]。北川の地区内には矢立木(やたてぎ)、槙立(まきだち)、味噌震(みそゆるぎ)、手開(てびらき)、柄山(からやま)、光源寺(こげんじ)などの集落が形成され、1912年(大正元年)頃には80戸を数えた[1][3]。更に当時の大鹿村を発着する物資は分杭峠を通り、高遠に運ばれていたためその駄馬が通る北川にも馬宿が設けられ、運輸関係の仕事をするものもあらわれた[1]。こうして養蚕、製炭、運輸の産業により1918年(大正7年)から1919年(大正9年)ごろ北川は短い繁栄期を迎える[1]。
しかし養蚕は次第に不況になり、大正末期に敷設された索道により北川を通る駄馬は急減、更に1921年(大正11年)3月に北川地区が公有林野等官行造林法の対象になったことで製炭も出来なくなった[1][6]。こうして僅かな畑地の耕作からの収入のみになった北川の住民は次第に困窮し、他所に転出することとなり人口は1953年(昭和28年)の時点で50戸に、1961年(昭和36年)には39戸まで減少していた[1]。
1961年(昭和36年)6月27日、連日の雨で鹿塩川ならびにその支流は増水していた[1]。人々は槙立、馬墓地、手開、柄山、不動つる根に避難したため人的被害は少なかったが、はじめに東小花沢に架けられていた橋が増水によって危険な状態となったことで作業のため集まっていた集落の人々のうち3人が突然発生した鉄砲水の濁流に呑まれた[1][7]。この3人は地下足袋でなく長靴を履いていたため、靴の中に入った泥に足を取られたといわれている[7]。北川集落のすぐ下流で発生した規模の大きい山体崩壊によって土石流がせき止められ北川集落のあらゆる建物が破壊された[8]。
翌6月28日に役場に向かった連絡隊は北入にある黒川を渡ることが出来ずに引き返し、その後6月30日に北入消防団の救助の手が届くまで孤立状態にあった[1]。7月3日からはヘリコプターによる救援も始まったが再興の目途が立たなかった北川集落は1963年(昭和38年)に全戸集団移住したことで離散した[1][2]。
現在は記念碑がある他、下流にあった橋の一部が当時のまま残っている[2]。
地名の由来
北側から流れてくる川と言う意味で北川とされた[1]。これは元々河川を指す名称であったが、当地に居住するものが増えるとともに集落名として呼ばれるようになったという[1]。
