北川アイ子
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樺太での生活
1928年に樺太の野頃に生まれ、3、4歳の頃からオタスの杜に暮らす[1]。父は北川ゴルゴロ、母は北川アンナ、13人兄弟で、従兄のゲンダーヌとも兄弟同然に暮らしていた[2]。家族ではウイルタ語を話す生活であったが[3]、ゲンダーヌ(1926年頃生まれ)と異なり日本人名を付けられている[4]。1936年、満8歳から、アイヌ以外の少数民族を対象とした学校「敷香土人教育所」で日本の学校教育を受ける[5]。
1942年からオタスの少数民族の男性は軍に徴用が始まる一方、女子は当地の日本軍の兵隊の食事の世話など勤労奉仕を行った[6]。1945年8月17日、オタスの職員が、先住民族は元々ソ連の人間であるとして当地に残るように告げ、日本人のみ内地に引き上げることを宣言する[7]。校長から日本人になるように教えられてきたアイ子は怒り、「自分は日本人でもウイルタでもないことにした」と言ったという[7][8]。
満18歳の時、エヴェンキ族の年上の男性ゲルゴールと結婚するが、6か月後にゲルゴールはロシア軍によってシベリアに連行される[9]。1952年には、朝鮮人のゴン・アンツリ(15歳のとき樺太に強制連行されて以来炭坑で働き、ソ連時代には漁網工場に働く)と結婚[10]。1955年に兄のゲンダーヌがシベリア抑留を経て日本に「引き揚げ」て北海道網走市に移住、3年後には父のゴルゴロや姉を日本に呼びよせた[11]。アイ子はその後もサハリンで暮らし、子どもたちはロシア語で育てられた[12][13]。
日本への「引き揚げ」後
1968年に夫と5人の子どもと共に日本に渡るが[13]、その後夫が音信不通になる[14]。アイ子は畑仕事の下働きなどをして生活する[15][16]。
1975年頃、ゲンダーヌがウイルタとして活動を開始し、アイ子も活動を支える[17]。オロッコの人権と文化を守る会(のちウィルタ協会)が結成され、1978年に網走市大曲に私設の北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニを開館、ゲンダーヌが初代館長となった[18]。ウイルタをはじめとする少数民族を紹介する収蔵品は来館者が手に取ることが可能で[19]、アイ子も文様や、衣服、樹皮を使った日用品を制作、来館者に解説などを行った[20]。
ゲンダーヌが軍人恩給支給を訴える際には、戦地で亡くなったウイルタなどの少数民族の兵士のことを思い、元上官に敬意を表すゲンダーヌを叱咤するなどした[21][22]。1982年に天都山に少数民族戦没者慰霊碑を建立するに際し、自宅周辺を戸別訪問して寄付を募った[23]。
1984年にゲンダーヌが死去すると、ジャッカ・ドフニの館長に就任する[24]。晩年は入退院を繰り返していたが[25]、2007年12月16日、網走市内の病院で死去、79歳没[26]。子どもたちは日本人として暮らしていくことを選んでおり[17]、親族も出自を公表していないことから[20]、日本国内でウイルタを名乗る最後の人物だった[24]。その後、ジャッカ・ドフニは2010年に一般公開終了、2012年8月18日に閉館し、資料は北海道立北方民族博物館が引き継いでいる[27]。