叔父の北条氏時が死去すると、跡を継いで12歳で玉縄城主となり、享禄5年(1532年)7月23日には朱印状を発行している。しかし元服前だったようで大道寺盛昌や(のちに養子となる)北条綱成などが補佐にあたっている。以後、武蔵国川越城、小机城、相模国三崎城などの城主・城代を務めた。
稲村の変の際には里見義堯への援軍として派遣されている他、山中の戦いや入間川合戦でも父や兄、叔父の幻庵と共に参戦している。
また天文初年には、造営総奉行に任じられた大道寺盛昌、笠原信為とともに鎌倉鶴岡八幡宮の再建も行っている。なお、「為昌」の諱もこの信為・盛昌双方から1字を与えられて名乗ったものと思われる(特に盛昌は、元服の際の烏帽子親を務め、その後も後見人として為昌を補佐している)。
以後、寺社関連の日記にたびたび登場するが、天文8年(1539年)頃から名前が見えなくなり、この頃から病に臥していたと思われる。天文11年(1542年)に23歳で没した。法名は本光院殿竜淵宗哲禅定門。菩提寺として小田原に本光寺が建てられた。子がなかったため、綱成が為昌の養子となる形で家督を継いだ。為昌以降の家系を玉縄北条家という。
なお、かつては妻として養勝院(朝倉氏)がいると考えられていたが、彼女が綱成の実母であることが確認されたため、現在では不詳とされている。
一方で、小笠原康広の妻・種徳寺殿は為昌の娘が氏康の養女になったものと考えられている(小田原にあった為昌の菩提寺・本光寺が、種徳寺殿の手によって江戸・赤坂に移されて種徳寺と改名されているため)。