小机城
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![]() (神奈川県) | |
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東郭下の折りのある空堀 | |
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| 別名 | 飯田城、根古屋城 |
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 上杉氏か |
| 築城年 |
永享年間(15世紀前半)か 1524年(大永4年)頃再興 |
| 主な改修者 | 長尾氏、後北条氏(小机北条氏) |
| 主な城主 | 上杉氏、長尾氏、後北条氏(小机北条氏) |
| 廃城年 | 1478年(文明10年)、1590年(天正18年) |
| 遺構 | 堀切[1]、横堀[2]、空堀[3]、土塁[4]、虎口[5]、土橋[6]、櫓台[7]、帯郭 |
| 指定文化財 | 史跡等未指定[8] |
| 登録文化財 | 史跡等未登録[8] |
| 埋蔵文化財 包蔵地番号 | 県:港北区№177、市:港北区№168 |
| 位置 |
北緯35度30分44.81秒 東経139度35分37.36秒 / 北緯35.5124472度 東経139.5937111度座標: 北緯35度30分44.81秒 東経139度35分37.36秒 / 北緯35.5124472度 東経139.5937111度 |
小机城(こづくえじょう)は、現在の神奈川県横浜市港北区小机町付近に相当する武蔵国橘樹郡小机郷にあった日本の城(平山城)。史跡指定等はされていないが[8]、「小机城址」として神奈川県の特別緑地保全地区に指定されている(2006年5月15日指定)[9]。周辺は市民の森として城の遺構が整備されている。
戦国時代には南武蔵における後北条氏の拠点として機能し、城主は一門である久野北条氏[10]や小机北条氏[11]が努め、城代には北条五色備の白備えを務めた宿老・備中笠原氏(越前守家)、その下には周辺豪族による小机衆が配置された。現在の横浜市域においては、最重要かつ最も巨大な城郭であった。
戦国時代
小机城は、永享の乱(1438年 – 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。
この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした小机城を太田道灌が攻撃をした。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、松は数度の植えなおしを経て、石碑とともに残る(横浜市神奈川区羽沢町)。
その後は廃城となったが、この地域が後北条氏の勢力下に入った1524年(大永4年)頃に北条氏綱の手により修復され[12]、宿老の笠原信為が城代として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き雲松院(神大寺)を建立するなど城下の整備に力を注いだ。城主は北条時長、北条氏尭、北条氏信、北条氏光と替わっている。(このうち氏尭、氏光の父子は「小机北条氏」と呼ばれる。)1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。
近現代
城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれ、1892年(明治25年)2月5日、橘樹郡小机村(のちの城郷村の一部)の九大字(下菅田、羽沢、三枚橋、小机、鳥山、片倉、神大寺、六角橋、岸根)は「小机」としていた村名を改め、城があった郷すなわち城郷(しろさと)村とすることを村議会で決定した。城郷村の名は以後、各集落が1927年(昭和2年)に横浜市に編入されるまで使われ、編入後も学校名などに「城郷」として残っている。
2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(125番)に選定された。
現状

小机城の跡は小机城址市民の森として整備されているが、史跡指定等は一切されていない(埋蔵文化財包蔵地の周知のみ)。城郭の主要な二つの郭とその間の細い郭は残されている。現在ニ郭とされている場所の一部では発掘調査が行われた。
現在「本丸」とされている西側の郭では野球が行われたりしていて、遺構が徐々に傷んでいる。「本丸」の西側の一部は、第三京浜道路の建設の際に分断され、破壊された。また、西側の尾根続きにも城跡が続いていたが、地下に横浜線の城山トンネルが貫通し、その上の遺構が大きく破壊されてしまった[注 1]。第三京浜道路を挟んだ郭の側には堀切の痕跡があるが、それより先の場所は宅地となり開発が進み遺構は確認できない。また塚が存在するが遺構の一部かは不明である。
- 西郭
- 東郭
- 西郭南堀(左に西郭)
- 西郭北堀(右に西郭)
- 東郭北堀(右に東郭)
- 東郭下の空堀
- 東郭と中間に存在する小郭間の空堀
- 西郭へと繋がる土橋と虎口
- 小机城址市民の森
主郭論争と登城路
支城
歴代城主(久野・小机北条氏)
歴代城代(備中笠原氏)
城代
備中笠原氏の一族である越前守家が代々小机城の城代を務めた。
・越前守家
二代:笠原康勝(信為の子)
三代:笠原照重(康勝の子)
四代:笠原重政(照重の子)
備中笠原氏
備中国後月郡荏原荘(岡山県井原市)を本貫とする備中笠原氏は、笠原春氏が祖とされる。その子である氏冬が京都伊勢氏の伊勢貞藤の被官となり、その子信隆が備中伊勢氏の伊勢盛時(北条早雲)に従って駿河国に下り、盛時の子である北条氏綱が関東に進出したのに伴って武蔵国橘樹郡小机荘(横浜市港北区小机町)に移った。
信隆の子が初代小机城代で越前守家の笠原信為(越前守)である。信為以降、越前守家は、小机城主を支え、周辺豪族による小机衆を統率して各地を転戦した。信為と息子の康勝(能登守)は、北条五色備のうち白備えを任されている。
最後の小机城代である重政は、父照重の死後、小机領内の殿谷(横浜市港北区大倉山)に屋敷を構える伊藤藤七に養育され、小田原落城後の1590年(天正18年)に神奈川宿で徳川家康に拝謁。都筑郡台村500石を与えられ、子孫は江戸幕府の旗本として続き、明治維新を迎えた。
越前守家・旗本笠原家の菩提寺は、信為が開基した、横浜市港北区小机町にある曹洞宗の寺院雲松院。笠原家の墓所は、 1994年(平成6年)に「横浜市登録地域史跡名勝」に登録されている。[18]
このほか、後北条氏家臣の笠原氏は、小机城代を務める越前守家、藤左衛門尉家、大曾根城の筑後守家、伊豆衆の美作守家の大きく4家に分かれていた。詳しくは備中笠原氏の稿を参照。
城将(小机衆)
周辺
「神大寺」と「雲松院」
横浜市神奈川区神大寺の町名の由来は、戦国時代に小机城代の笠原信為が父信隆の追善供養のため、龍が潜むという言い伝えのある「龍池」があったとされるこの地に、寺を建てたことに由来する。寺は二代目住職の天叟順孝(てんそうじゅんこう)の代に火災に遭ったため小机に移り、これが現在の「雲松院」となった。その後、当地に寺は無くなったが、その寺号が地名として残ったと言い伝えられている。[20]神大寺のあった場所は現在も定かでなく、資料も発見されていないが、町の中央付近にある「塩嘗地蔵」(塩を供えるいぼ取り地蔵)のある辺りの畑から太平洋戦争中に「骨壷」と「六文銭」が地元農家によって発見された。戦時中の混乱の中でこの骨壷の行方が解らなくなったが、もし笠原氏のものであったとすれば、その辺りに存在したと推測できる。また、塩嘗地蔵は神大寺の門前にあたるという説もある。
ほかにも神大寺の町内には、小机城の合戦で亡くなった兵士を供養した「九養塚」、「十三塚」や、太田道灌が小机方の残兵を処刑した「磔原」、その血で谷戸が赤く染まったといわれる「赤田谷戸」などの地名が存在していた。
脚注
参考文献
- 西村和夫 著「小机城」、西股総生 編『東国の中世城郭』中世城郭研究会〈中世城郭研究別冊〉、2010年、78-79頁。 - オンライン版
- 前田右勝『神奈河戦国史稿』前田右勝、2006年
- 八巻孝夫「小机城の考察(上) : 縄張の研究史及び城の歴史と構造を考える」『中世城郭研究』第33号、中世城郭研究会、2019年、88-116頁。ISSN 0914-3203。
- 八巻孝夫「小机城の考察(下) : 縄張の研究史及び城の歴史と構造を考える」『中世城郭研究』第34号、中世城郭研究会、2020年、88-116頁。ISSN 0914-3203。
- 横浜市教育委員会『横浜市港北区 小机城跡 : 令和3・4年度小机城跡埋蔵文化財試掘調査報告書』公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団〈横浜市教育委員会埋蔵文化財調査報告書 1〉、2024年3月。
- 横浜市歴史博物館『北条幻庵 : 横浜・小机城と関東の戦国』横浜市ふるさと歴史財団、2025

