北生振
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1885年(明治18年)4月、山口県団体20戸106人が入植したことで開拓が始まる[2]。彼らの入植先は、21世紀初頭現在での石狩河口橋上流の川縁付近だが、当時の土地の大半は石狩川の流れに削られてほとんど現存していない[2]。開拓者たちも土地が水害にさらされる危険性を察知したらしく、同年6月には14戸が東にある高台の高岡地区に再移住してしまった[2]。結局その場に残留したのは6戸であったため、一帯の通称も六戸となった[2]。
開拓当初にはまだ「北生振」という地名はなく、1902年(明治35年)の二級町村制施行により生振村が近隣10町と合併して石狩町となったときか、1907年(明治40年)の一級町村制施行時のどちらかに成立したものと考えられる[3]。1917年(大正6年)発行の『石狩管内略図』は一級町村制施行時の石狩町内を12部に分けて描いており、その中に「北生振部」があることから、遅くとも1907年(明治40年)には「北生振」という名称が使われていたことがわかる[4]。
前述のとおり開拓初年度から入植者の半数も残らなかった北生振であるが、その後に新潟県からの移住者を迎えるなどして、徐々に人口を増やしていった[4]。1901年(明治34年)ころには40戸ほど、大正初期には80戸以上が居を構えていたといわれる[5]。しかし北生振の土地は、縄文海進の後に湿地化して形成された高位泥炭が最大で3メートル近くも層をなすという、石狩市域で最も厚い泥炭地である[6]。開拓は困難を極め、『清野孫市一代記』に記された大正時代の様子では、5年の間に戸数が半減し、残った者も借金に追われる暮らしだった[5]。
1918年(大正7年)、生振捷水路の工事が始まる[7]。住民たちは土砂運搬の出面で現金収入を得て、生活を支えたという[5]。水路が完成したのは1931年(昭和6年)のことである[8]。
太平洋戦争終結後、食料を増産する必要が生じたことから、石狩では全町を挙げて造田が行われた[6]。北生振では1948年(昭和23年)2月、普通であれば工事など行わない積雪期に造田事業が開始され、約54ヘクタールを開田[6]。さらに1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)にかけて、およそ631ヘクタールが造田された[9]。他の地区ではやがて住宅団地の造成や石狩湾新港開発事業によって水田が姿を消していくことになるが、生振と北生振は平成年間に入っても水田地帯であり続けた[9]。
