北碑
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北方異民族に追われて西晋が滅亡し、南方に東晋として逃れてから、中国の書道は隋の統一までの間、ほぼ250年以上にわたって南北に分かれ、それぞれが独自の手段や個性をもって書道を発展させていった。
書蹟の残し方は大きく違い、南朝では建碑が厳重に禁じられたせいもあり、紙によって多くの書蹟が法帖として残されたが、北朝では写経を除き昔ながらの金石文として残された。これらの金石文類を総称して「北碑」と称する。その数は極めて多豊富な史料を提供している。
北碑の造営は北魏が最も多いが、北魏の解体によって成立した東魏やさらに王朝交替した北斉・北周にも存在する。また場合によっては、隋を北朝の王朝とみなす考え方から、隋代のものを含めることもある。
種類
北碑の種類はその絶対数が多いため、極めて多岐にわたる。以下、種類を挙げながら代表的なもの二三を紹介する。
碑
北碑では顕彰碑や記念碑のほか、墓碑として建てられたものが多く、著名な碑の相当数がこれに該当する。
磨崖
崖を磨いてそこに文字を刻んだもので、中国では碑に次いで多い形態の金石文である。北魏の書家・鄭道昭が領内視察の際に刻んだもの、また山の斜面や洞窟の外側に経文を刻んだものなどが有名である。
- 石門銘
- 永平2年(509年)の刻。漢中(現在の陝西省漢中一帯)から関中(現在の陝西省西安一帯)へ通じる道が西晋の滅亡により廃道になっていたのを復旧した際、竣工を祝って隧道に彫りつけた磨崖。
- 鄭文公碑
- 永平4年(511年)の刻。光州(現在の山東省東部)の刺史となった鄭道昭が、父の鄭羲を偲んで天柱山と雲峯山の2ヶ所に刻したもの。前者を「鄭羲上碑」、後者を「鄭羲下碑」という。「碑」と称するが磨崖である。
- 泰山金剛経
- 泰山の中腹に刻された金剛般若経の経文。1字の大きさが50センチ近くもある巨大なものである。
造像記
仏像を造る際、その目的や供養文、刻者の名前や年月を添えて彫った文。北朝では、仏教を国教化しており、磨崖仏が多く作られた。特に大々的なのが龍門洞窟であり、そこに刻まれた造像記が書蹟として珍重されている。
墓誌
墓碑を建てる代わりに石板に生前の業績や追悼文を刻み、棺と共に埋葬したもの。西晋で出た建碑に対する禁令を逃れるために編み出されたものといわれ、その後定着して北魏に大量に制作され唐代まで続いた。極めて数が多い。
書風
北碑の書体は全て楷書である。ただし現代の楷書と異なり、極めて角ばった運筆(方筆)を多用し、鋭く雄渾な書体となっている。この書風は北碑特有のものであり、総称して「六朝楷書」と呼ばれている。
ただし同じ六朝楷書でも一様ではなく、龍門二十品の「始平公造像記」のように相当に荒削りなものから、刁遵墓誌のような洗練されたものまでいろいろである。また鄭文公碑は方筆主体の北碑の中で、丸く角のない運筆=円筆によっており、南朝でものされた南帖の書法の影響が示唆され、この時代の南北朝間に全く文化交流がなかったわけでないことの証左となっている。
さらに時代が下って東魏・西魏以降になると直接的に南帖やそれに類する書蹟が流入するようになり、南帖の影響を強く受けて北魏の六朝楷書の特徴がかなり薄れたものも登場し始める。
また北碑は異体字や俗字の宝庫である。当時、目立った字体統一がなされていなかったためで、それだけで分厚い字典となるほどの種類があり、清代末の考証学者・羅振玉により『碑別字』という異体字字典が上梓されている。