貞淑にして見識があり、12歳で同郷の杜有道(杜恕の同族)に嫁ぐ。17歳の時に夫と死別するも、節を守り残された二子を育て上げた。そうして息子の杜植は名声を得て、娘の杜韡は淑徳を持つようになると、傅玄から娘を後妻に求められた。
当時、権勢の中心であった何晏や鄧颺らと傅玄は不仲で、あえて婚姻を結ぶような家はなかったが、厳憲は許可した。ある人は「何晏、鄧颺は権力を握り、必ず傅玄に害をなす。それは山が卵を潰すように、湯で雪を解かすように(自明のことだ)、どうして縁を結ぶのか?」と問うと「それは一を知って他を知らないというものです。何晏らは驕りと奢侈で必ず敗れる。司馬太傅(司馬懿)は雌伏しているだけです。」と答え、ついに娘を嫁がせた。その後、予想の通り何晏らは司馬懿に誅殺された。また、息子の杜植は南安太守となった。
244年、娘の杜韡が6歳の傅咸(傅玄の前妻の子)を連れて厳憲を訪ねてきた際は[1]、「お前は千里の駒だ。かならず大成する。」と言って自身の姪を妻に与えた。その後、傅咸は海内で有名になった。
270年、息子の従兄弟にあたる秦州刺史・杜預が、石鑒に誣告されて都に呼び戻されると[2]、「ことわざに「屈辱に耐えれば三公に至る」とありますが、あなたにとって今がその時です。ここで耐え忍べば三公の座はあなたのものとなります。」と書を送り、後に杜預は儀同三司に至った。
彼女の才能を見抜く力はすべてこのようなものだった。65歳で卒した。