友田興藤

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生誕 不詳
別名 藤原興藤
 
友田 興藤
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文10年4月5日1541年4月30日
別名 藤原興藤
戒名 東光寺殿玉叟長琳居士[1]
墓所 洞雲寺広島県廿日市市佐方
官位 兵部少輔[2]上野介[2]
主君 大内義興義隆
氏族 厳島神主家
父母 父:不詳
兄弟 某、 興藤広就
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友田 興藤(ともた おきふじ)は、戦国時代武将神官厳島神主家の当主である神主を称する。弟は藤原広就

出自

父は不明ながら、厳島神主家の一族である友田氏に生まれる。なお、「友田」の名字安芸国佐伯郡友田邑[注釈 1]に由来するとされ[3]大内義興から「興」の偏諱を与えられて、「興藤」を名乗った。

在京と後継争い

永正5年(1508年12月8日、大内義興に従って在京中だった厳島神主の藤原興親が後継を定めないまま病死したことで、その後継をめぐって厳島神主家の一族で興親に従って在京していた興藤と小方加賀守が争うこととなる[4][5][6]

また、国元の安芸国においても跡目を巡って宍戸治部少輔をはじめとして桜尾城を拠点とする東方と、新里若狭守をはじめとして藤懸城を拠点とする西方に分かれて厳島争奪の抗争を繰り広げ、安芸武田氏武田元繁が東方に合力する等の深刻な事態に陥っていた[4]

永正15年(1518年)に周防国に帰国した大内義興は厳島神主家における抗争に対して裁定を下したが、その内容は厳島神主を定めずに厳島神社の神領を大内氏の管掌とし、己斐城本城、桜尾城など佐西郡内の諸城に大内氏家臣を在番させるという、興藤にとっても不満が残るものであった[4]

神主を称す

大永3年(1523年)閏4月11日、先の大内義興の裁定を恨みに思っていた興藤は安芸武田氏の武田光和らの助力を得て、大内氏が佐西郡内の諸城に城番として在番させていた己斐城内藤孫六、桜尾城の大藤加賀守を放逐し、石道本城杉甲斐守を討ち取った[7][8]。この時、興藤の被官であった幡見十郎左衛門尉が戦死している[8]

桜尾城に入城した興藤は永正5年(1508年)以降その座を巡る争いによって途絶えていた厳島神主を称した[4][7][8]。この時、大内氏による支配強化に反発した厳島神領衆の多くが興藤を支持したと考えられているが、このように反大内氏勢力が増大する安芸国の動向を好機と見た尼子経久は安芸国と備後国へ侵攻した[9]

この事態を受けて大内義興は陶興房を安芸国に派遣し、陶興房は大野の門山城に本陣を置いた[4]。興藤は陶興房を攻撃したが敗北し、さらに大内義興は嫡男の大内義隆と共に安芸国に出陣し、興藤が守る桜尾城を包囲した[4]

興藤らは桜尾城に籠城して頑強に抵抗し、7月24日陶興房の軍が桜尾城に攻め入ったが、友田軍の反撃によって陶軍の主だった者十人余りが戦死している[10]。また、大内氏家臣の仁保興奉7月25日7月29日8月11日の3回に渡って桜尾城の北側から攻め込んだが、友田軍の弓矢や投石によって多大な損害を被って撃退されている[10]

大永4年(1524年)10月、興藤と大内氏の間で和解が成立した。和解に際しては興藤に代わって興藤の兄の子にあたる藤太郎が厳島神主となることが決定し、厳島の大内軍本陣において藤太郎は大内義興に対面した[4]。しかし、厳島神主の座を退いて以降も興藤は実権を握っていた[4]

大永8年(1528年3月13日、平良庄の内の鵼原名を厳島神社造営領として大願寺道本に預けたことで、以降は鵼原名の年貢4石、定夫1人、その他の人足等が大願寺に納入、取得されることとなる[11][12]

同年に藤太郎が病死したため、興藤の弟の広就が厳島神主となり、厳島にて大内義興と対面した[4]

最期

洞雲寺の友田興藤墓

天文9年(1540年)に尼子晴久が安芸国に侵攻すると興藤は再び尼子氏と結ぶ動きを見せ、吉田郡山城の戦いの最中である天文10年(1541年1月12日に3度目となる大内氏からの離反を実行し、能島村上氏の警固船と共に厳島を占領した[13][14]

しかし、興藤挙兵の翌日である1月13日には毛利元就陶隆房との決戦で尼子久幸が戦死する等の大きな打撃を受けた尼子軍が安芸国から撤退を開始し、毛利軍の追撃により多数の戦死者を出しながら出雲国へ帰国した[15]。尼子軍の撤退により安芸国と備後国の尼子方勢力は一挙に総崩れとなり、吉川興経三吉致高山内隆通宮興盛らが大内方へ転じて孤立無援となった武田信実が出雲方面に逃走したことで安芸武田氏が滅びている[15]

さらに、興藤の離反の動きを予測して周防国玖珂郡岩国に本陣を置いていた大内義隆は、同年3月に安芸国の門山城、次いで七尾に進出して興藤が籠もる桜尾城を包囲した[16]

同年3月9日3月19日に友田方の桑原与四郎が藤懸に在陣する大内軍と交戦し、内藤正朝らを含む多くの将兵を討ち取る武功を挙げたため、興藤は3月27日に桑原与四郎に感状を与え、合戦が終わった際には一所の給地を与えることを約束し一層の軍忠を求めた[17][18][19]

同年4月5日、頼みとした神領衆に見限られた興藤は桜尾城内で自害した[注釈 2][16][22]。また、厳島神主を務める弟の広就は五日市城へ逃れたが、翌4月6日には興藤と同様に自害に追い込まれ、厳島神主家は滅亡した[16]

逸話

脚注

参考文献

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