双子地球の思考実験

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双子地球(ふたごちきゅう、英語: Twin Earth)とは、哲学者ヒラリー・パトナムが論文「意味と指示」(Meaning and Reference、1973年)および「『意味』の意味」(The Meaning of 'Meaning'、1975年)のなかで提案した思考実験である。これは、意味論的外在主義、すなわち語の意味が純粋に心理的なものではないとする見解を擁護する彼の議論の例解として役立つことを意図している。双子地球の思考実験は、パトナムが意味論的外在主義を支持して提示した三つの例の一つであり、他の二つは彼がアルミニウム・モリブデンの事例およびブナ・ニレの事例と呼んだものである。これらの事例の発表以来、この思考実験の数多くの変種が哲学者によって提案されてきた。

双子地球の思考実験は、一点を除いてあらゆる点で同一である第二の地球を想定する。

思考実験

パトナムによる実験のもともとの定式化は次のようなものであった。宇宙のどこか別の場所に、事実上あらゆる側面で地球とまったく同じ惑星があり、これは「双子地球」と呼びうる。関連する周囲の環境は地球とまったく同じである。それは太陽とまったく同じように見える恒星の周りを回っている、等々。双子地球には、ここ地球上のあらゆる人やものの双子に相当するものが存在する。二つの惑星の唯一の違いは、双子地球には水が存在しないことである。その代わりに、表面的には同一だが化学的には異なる液体が存在し、それは H2O ではなく、「XYZ」と略記しうるもっと複雑な化学式から構成されている。自分たちの言語を「英語」と呼ぶ双子地球人は、XYZ を「水」と呼ぶ。最後に、この思考実験の時代は数世紀前、地球と双子地球の住人が、自分たちが「水」と呼ぶ液体がそれぞれ H2O と XYZ であることを知る手段をもたなかったであろう時代である。地球の人々の水との経験と、双子地球の人々の XYZ との経験は同一であろう。

ここで問いが生じる。地球人(簡単のためにオスカーとする)と双子地球の彼の双子が「水」と言うとき、彼らは同じことを意味しているのか。双子も自分の惑星では「オスカー」と呼ばれ、その惑星の住人は自分たちの惑星を「地球」と呼んでいる。彼らは同じ思考、感情などをもつ同一の心理的状態にある。それでもなお、少なくともパトナムによれば、オスカーが「水」と言うとき、その語は H2O を指示するのに対し、双子オスカーが「水」と言うとき、それは XYZ を指示する。このことから、人の脳の内容は、その人が用いる語の指示を決定するのに十分ではないことが帰結する。観察者は、この個人がその語を獲得するに至った因果的歴史をも調べなければならないからである(たとえばオスカーは H2O で満たされた世界で「水」という語を学んだのに対し、双子オスカーは XYZ で満たされた世界で「水」を学んだ)。

これが意味論的外在主義の本質的なテーゼである。パトナムはこの結論を「『意味』はただ頭の中にはない」という言葉で有名な仕方で要約した[1]

批判

パトナムはもともとの論文で、双子の「水」の指示は、彼らの心理的状態が同じであるにもかかわらず異なる、と主張していた。タイラー・バージはその後「他者の身体」(Other Bodies、1982年)のなかで、双子の心的状態は異なる、と論じた。すなわち、オスカーは H2O という概念をもち、双子オスカーは XYZ という概念をもつ、というのである。パトナムはその後、この思考実験についてのバージの解釈に同意を表明した(Pessin and Goldberg 1996, xxi のパトナムの序文を参照)。

多くの哲学者は、オスカーと双子オスカーの双方にとって「水」は十分に水のようなもの(すなわち、その語の外延は H2O と XYZ の両方を含む)を指示する、と論じてきた。それゆえ彼らは、「水」が H2O を指示する固定指示子であるという主張を退ける。たとえばジョン・サールは(『志向性——心の哲学についての試論』Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind)、われわれの水が H2O であると発見したならば、それを H2O として再定義する(古典的な還元的再定義)か、あるいは「水」という語が水の基本的性質(透明性、湿り気など)をもつ任意のものを指示し続けることを許すか、という選択肢がある、と論じる。サールは、双子地球の例では、双子地球に水がないならばその水を基にしたすべての産物もまた異なるであろうから、第二のほうがもっともらしく思われる、と示唆する。たとえば双子アイスクリームは構成的に異なるであろうが、それでもわれわれはそれをアイスクリームと呼びたくなるであろう。サールは、他の論者とともに、これが思考実験を完全に「解決する」のに十分な議論であるとみなす。ドナルド・デイヴィッドソンのような他の論者は、この実験の変種が同じ結論のいくつかを引き出すために用いられうると考える[要出典]

ポール・ボゴシアンは、外在主義が特権的自己知と両立しないことを示すことを狙いとする議論の形で、外在主義を支持する双子地球型の議論のクラスへの異論を提起した。ここで特権的自己知とは、(経験的証拠を求めて)外的世界を調べる必要なしに、自分の思考の内容を知りうるという考えとされる。この種の議論は外在主義を直接反証するものではないが、特権的自己知の存在の直観的なもっともらしさゆえに切迫したものである[2]

一部の哲学者は、(双子地球のような)こうしたSF的思考実験は注意深く検討されるべきだと考える。彼らは、思考実験が現実の事態(あるいはわれわれがそうだと考えるもの)とは根本的に異なる事態を記述するとき、われわれの直観は信頼できないものになりうるので、それらから引き出される哲学的結論もまた信頼できないかもしれない、と論じる。ダニエル・デネットは、双子地球やそれに類する他の実験を「直観ポンプ」と呼ぶ。それらは、考える者が自分の直観を用いて問題を導いてもらえるような仕方で設計されているからである。一部の哲学者は、双子地球の思考実験/直観ポンプが誤った直観を作動させ、それゆえ誤った結論に導く、と考える。たとえばフィル・ハチンソンは[3]、次のことを指摘する。(a)パトナム自身の後年の他者批判(たとえば著書『三つ撚りの糸』The Threefold Cordにおけるジェグウォン・キム批判)を見れば、暗黙裡に彼が自分自身の以前の姿を批判していることがわかる。(b)双子地球の思考実験/直観ポンプの説得力は、それがパトナムの主張するところを確立するために、われわれが実験のいくつかの側面に目をつぶることに依存している。要するに、この思考実験は、人の直観が望ましい方向にポンプで送り込まれるような仕方で設定されているのである。

ジョン・マクダウェルは、論文「心と意味についてのパトナム」(Putnam on Mind and Meaning)のなかで[4]、心を脳をモデルとして頭の中に位置するものとする描像への潜在的なコミットメントをパトナムがなお抱えている、と批判した。パトナムはその後この点を認め、心を対象を含む諸能力の構造化された体系とするマクダウェルの新ウィトゲンシュタイン主義的・治療的な想起(パトナムがその後、心の新アリストテレス主義的描像として擁護したもの[5])を支持している。フィル・ハチンソンはその後、マクダウェルへのこの譲歩は、パトナムが操作可能にしたいと望む内包と外延の区別がいまや問題化されることを意味する、と論じている[6]

ジョン・デュプレは、いくつかの論文のなかで、主に論文「自然種と生物学的分類群」(Natural Kinds and Biological Taxa)のなかで[7]、多くの人がパトナムの双子地球の思考実験によって確立ないし支持されているとみなしてきた自然種の理論が、科学的分類の実践において支持を見出さないことを示した。アヴラム・ストロール英語版は、著書『風景のスケッチ』(Sketches of Landscapes)のなかで、(自然種意味論(パトナムのものとクリプキのものの両方)のプログラムに対するおそらく最も包括的な批判を生み出した[8]。さまざまな問題について哲学的立場を変えることでよく知られているパトナムは、この実験が反機能主義的であるという理由で、後年これを批判した[要出典]

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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