口羽元通 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長19年8月12日(1614年9月15日)改名 口羽才松丸(幼名)→口羽元通 凡例口羽 元通時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長19年8月12日(1614年9月15日)改名 口羽才松丸(幼名)→口羽元通別名 通称:善九郎→七郎左衛門尉主君 毛利輝元→秀就藩 長州藩氏族 大江姓毛利氏庶流口羽氏父母 父:口羽通平、母:深瀬隆兼の娘兄弟 元通、女(阿曽沼就郷室)、女(梨羽景宗室)、女(中川元寄室)、末国元貞妻 山名豊国の娘子 なしテンプレートを表示 口羽 元通(くちば もとみち)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣で、萩藩(長州藩)士。父は口羽通平。 毛利氏家臣である口羽通平の嫡男として生まれ、毛利輝元に仕える。 天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役において、父・通平と大叔父・口羽春良が輝元に従って朝鮮へ渡海したが、慣れない朝鮮の風土から病にかかる者が続出し、同年10月11日に春良が開寧の陣中で病死した。 翌文禄2年(1593年)3月9日には父・通平も死去したため、元通が後を継いだ。 慶長5年(1600年)8月24日の安濃津城の戦いでは福原広俊隊に属して戦い[1]、首級1つを得る武功を挙げている[2]。また、同年9月15日の関ヶ原の戦いにおいても福原広俊の指揮下に属して南宮山に布陣していた[1]。なお、この時の元通の知行地の石高は6826石であることから、元通が率いた兵力は205人と推計されている[1]。 関ヶ原の戦い後は毛利氏の防長移封に従って元通も長門国萩へ移住したが、後に江戸詰めとなった。 慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、9番目に「口羽七郎左衛門尉」と署名している[3]。 慶長19年(1614年)8月12日に江戸で病死。若くして死去したため嗣子が無く、その所領は口羽春良の次男である元智に引き継がれた。 脚注 注釈 [脚注の使い方] 出典 1 2 3 光成準治 2014, p. 56. ↑ 『毛利家文書』第378号、慶長5年(1600年)比定8月25日付け、福式(福原式部少輔広俊)作成、伊勢国津城合戦頸注文。 ↑ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。 参考文献 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。 国立国会図書館デジタルコレクション 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。 国立国会図書館デジタルコレクション 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション 光成準治「軍事力編成からみた毛利氏の関ヶ原」谷口央編『関ヶ原合戦の深層』高志書院、2014年11月、53-78頁。ISBN 978-4-86215-142-1。 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」 Related Articles