古典の批判的処置に関する研究
From Wikipedia, the free encyclopedia
池田亀鑑は古典の研究方法として低度批判(本文批判)と高度批判(本文鑑賞)の二段階を仮設し、まず、その第一段階として「本文批判」の理論体系化を企図した。そこで芳賀矢一がドイツから導入した文献学の方法を日本古典文学研究に敷衍し、伝本状況が古典中最も良好である「土佐日記」の紀貫之自筆本再建のプロセスを例として著したのが『古典の批判的処置に関する研究』である。池田は本書で本文批判の方法論を確立したとされた。本書により「本文批判」「文献批判」「本文系譜」「祖本」などの、学術用語が定着したと言える文献学的研究の基本文献である。
協力者に池田の高弟松村誠一、新井信之、萩谷朴、および助手兼秘書の木田園子の四名を擁して作成されたことが知られ、実質的に池田は単独執筆というより、総監修者というべき立場にあった。このことは後年に萩谷朴が、この書の核心部分ともいうべき第二部「方法論」における代筆担当箇所を、具体的に萩谷自身の執筆原稿と池田の添削例とを示しつつこれを証言している[1][2]。
さらに翌1942年(昭和17年)10月、十数年の歳月を傾けた畢生の大著『校異源氏物語』全五巻(中央公論社)を完成させる。戦後、新たに稲賀敬二、石田穣二、小山敦子らを協力者に加え、前著『校異源氏物語』に「索引篇」「解説篇」「資料篇」「図録篇」を増補し、『源氏物語大成』全八巻(中央公論社 1953年〈昭和28年〉 - 1956年〈昭和31年〉)として刊行、有力伝本内の異文を比較検討して古典作品の原型(祖本本文の様態)を明らかにする、本文批判を基軸とした文献学的研究の実践と理論体系化を徹底した。
池田はこの後、高度批判としての古典の鑑賞を理論化する予定であったが、その逝去(1956年〈昭和31年〉12月)により 志半ばで中絶した。
目次
- 第一部 土左日記原典の批判的研究
- 第一章 原本とその傳來
- 第二章 原本再建のための資料
- 第三章 原本再建の可能とその方法
- 第四章 青谿書屋本の吟味と修正
- 第五章 貫之自筆本の形態とその性質
- 第六章 土左日記本文史の展開
- 第七章 定家自筆本とその系統
- 第八章 宗綱自筆本とその系統
- 第九章 實隆自筆本とその系統
- 第十章 實隆本末流諸本の系統學的處置
- 第十一章 爲相本系統の本文の成立とその性質
- 第十二章 宇万伎本の本文の展開
- 第十三章 土左日記末流に於ける本文の混態
- 第二部 國文學に於ける文献批判の方法論
- 第一章 一般的概念
- 第二章 原文献批判の諸方法
- 第三章 古典的本文に關する基礎概念
- 第四章 古典的文献の諸性質
- 第五章 文献批判の規準
- 第六章 系譜の建設とその法則
- 第七章 系譜建設のための共通誤謬の方法
- 第八章 共通誤診による方法の批判
- 第九章 系譜建設に於ける「異文」の基礎概念
- 第十章 異文の統合とその検査
- 第十一章 異文による傳來寫本辞の統合
- 第十二章 異文以外の諸事實による系譜の建設
- 第十三章 文献批判に於ける「混態」の意義
- 第十四章 混態に於ける系譜及び本文の建設とその方法
- 第十五章 日本古典作品に於ける本文轉化の諸類型とその實例
- 第三部 資料・年表・索引
- 原本再建のための土左日記諸本校異
- 土左日記諸傳本異文統合表
- 古代平假名字體一覽表
- 土左日記諸本平假名字體統計表
- 土左日記本文研究年表
- 索引
評価
三好行雄は『古典の批判的処置に関する研究』の方法を援用して筑摩書房版『明治文学全集 北村透谷集』(小田切秀雄・編集)の本文校訂のあり方を論じた。これは谷沢永一に論争を挑まれて完膚無きまでに論破される[注 1]。その影響は本書の再評価に及び、また1984年(昭和59年)に『土佐日記』の藤原為家自筆の写本が出現したことも相まって、1990年(平成2年)に約50年ぶりに復刊されることとなった。
長沢規矩也は日本文学の界隈において、昭和の初頭以来「書誌学」が「文献学」と同じような意味で使われることを「一種の誤解[3]」とし、その原因を「昭和初頭に書誌学的研究を始めた池田亀鑑博士が、図書館界と没交渉であった」からで「池田博士の遺鉢を誤り伝えた人が多いことも、この結果を招いた一因である」としている[4][5]。これに対して谷沢永一は、池田が『古典の批判的処置に関する研究』の「序」に「文献批判」「文献学」「理論体系」などの語を用いていることを例に、「池田亀鑑の仕事は「書誌学的研究」とは別個」であって「書誌学が文献学と呼ばれたことはない」としている[6]。いずれにせよ、書誌学が眼前に存在する書籍そのものを分析することに主眼を置くのに対して、文献学は現存する書籍を通してかつて存在したであろう本文について追求するものであり、その本質的な性格は大きく異なる[7]。