古市公胤
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略歴
- 1486年10月30日(文明18年10月3日)、興福寺の官符衆徒である古市澄胤の次男として生まれる[2]。
- 1500年5月5日(明応9年4月7日)、興福寺大乗院の乗隽房として修南院で出家し法名「公胤」を授かる[1]。
- 1507年(永正4年)、兄の胤盛が丹後国にて一色義有や石川直経ら丹後国人との戦いで討死した[3][4][5]。
- 1508年(永正5年)、父の澄胤が戦死すると古市氏惣領となり、細川澄元・畠山義英方に属する[6]。
- 1511年(永正8年)、鹿野園の六寸に築城したが、十市・箸尾らも加わった筒井方の攻撃を受け大敗した[7]。
- 1516年(永正13年)10月、越智家教と手を組み、筒井順賢を式下郡唐院で撃破、大和国から追放した[7]。
- 1520年(永正17年)5月、細川高国が上洛し、等持寺付近で三好之長を破った。その報が届くと、順賢とともに追放されていた弟・筒井順興が大和国に戻り、配下の超昇寺・矢田らと古市山城(鉢伏城)を攻撃した。公胤は敗走したが、同月末に再び南都に進出し、三百余の兵を率いて上高畠の一井地蔵堂に陣を構え、見嶽・白毫寺・勝願院に篝火を掲げる。5月29日に、加勢した超昇寺・鷹山ら戌亥脇衆五百余人と筒井方の大将・中坊美作公高祐を夜襲し勝利を収めた。
- 1520年(永正17年)6月、順興は中坊と合流し二千余の兵を率いて南都に入り、不空院・一井に陣する公胤を攻撃した。公胤は抗う術もなく、大柳生の大平尾城へ退却を余儀なくされた。再起を図るため、鉢伏で白毫寺の本堂や庫裡を壊して、鉢伏城を再築する。
- 1520年(永正17年)10月、法隆寺にて筒井・越智・十市・古市の和議成立、公胤には旧領が返還された。
- 1522年(大永2年)、公胤は畠山義尭と連携し再起を図るも、筒井方に追討され没落した。