古田大次郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
大学入学前
東京市麴町区(現在の千代田区の一部)隼町で陸軍主計官である父の次男として生まれる[1][3]。生まれてすぐに小石川区小日向台町に移転し[3]、すぐに青山三丁目に移った[4]。その後、父が測図部付として日露戦争に出征し、家を留守にして格式を張る家を必要としなくなったことからさらに青山五丁目に移った[4]。
青山尋常小学校に入学するが、父が戦地から帰り青山六丁目に移ったため2学期に青南小学校に転校した[5]。その後、麻布中学校に入学した[6]。
大学入学
麻布中学校卒業後は早稲田大学専門部英予科法科に入学した[7](後に本科で政治科に転じた[8])。入学したころに幸徳秋水の『社会主義神髄』を読み感激する[7]。
雄弁会に時々顔を出し[9]、1919年に民人同盟会に入会した[7]。この年に大杉栄、伊藤野枝と出会っている[7]。1920年には建設者同盟に参加するが[7]、後に脱会した[1][10]。
1921年に友愛会の関東連合大会に参加し、これを機にアナキストに転向した[11]。同年、母を亡くし大学を中退し小作人社を結成するが、翌年解散する[11]。
ギロチン社結成
1922年(大正11年)に中浜哲らとともに反逆者クラブ(のちのギロチン社)を結成した[1][2]。1923年から北千住でギロチン社のメンバーと共同生活を始めた[11]。
同年9月に甘粕正彦による大杉栄らの虐殺(甘粕事件)を知り、甘粕五郎の弟である甘粕五郎の襲撃計画に参加する[11]。
同年10月16日にギロチン社の財政危機を解決するために小西次郎とともに大阪の十五銀行小阪出張所の行員2人を襲撃し、1人を刺殺する事件を起こす[12]。11月に朝鮮に行き、福田雅太郎襲撃のための武器調達に奔走する[11]。
1924年に中浜哲が逮捕されると、朝鮮での武器調達計画を放棄し帰国する[11]。同年9月1日に和田久太郎らと福田雅太郎を襲撃するが失敗する[11]。
逮捕・死刑執行
1924年9月10日に小阪での事件や福田雅太郎狙撃事件などで逮捕される[11]。1925年3月に予審が終結し、5月に公判が開始し、死刑の判決を受ける[11]。控訴はせずに同年10月15日に死刑を執行された[11]。