同連盟は総督府からその活動を認められ、1935年(昭和10年)の第1回市会及び街庄協議会員選挙で相当の成績を収めた。その一方で台湾民衆党及び左派活動家は、日本政府寄りの政治的立場に対して批判し、この連盟を「第二の台湾公益会」と呼んで非難した。(台湾公益会とは、台湾総督府が、台湾文化協会及び台湾議会設置運動を抑制するために辜顕栄らの「御用紳士」を集め設立させた組織である。)この連盟の成立後、もともと派閥がはっきりしていた台湾民衆党の内訌がさらに激しくなった。そこで台湾民衆党中央は党員が党の垣根を越えて他党に加わるのを禁止した。そのため、同連盟は台湾民衆党と正式に決裂した[2]。