史匡翰

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史 匡翰(し きょうかん、903年 - 942年)は、五代十国時代官僚軍人は元輔。本貫代州雁門県[1]

九府都督を初任とした。代州副使・遼州副使を歴任し、検校太子賓客を加えられた。後唐同光元年(923年)、嵐憲朔等州都游奕使となり、天雄軍牢城都指揮使に転じた。さらに検校戸部尚書を加えられ、潯州刺史を遥領した。天成年間、天雄軍歩軍都指揮使に任じられた。一カ年あまりして、彰聖軍都指揮使に転じた[2][3]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、匡翰は検校司空懐州刺史に任じられた。ほどなく控鶴軍都指揮使に転じ、和州刺史・駙馬都尉を兼ねた。まもなく検校司徒鄭州防禦使となった[4][3]。天福5年(940年[5]、義成軍節度・滑濮等州観察処置・管内河堤等使に転じた。母が死去すると、匡翰は辞職して喪に服した。ほどなく義成軍節度使として復帰した[4][3]

匡翰は数州を統治して、いずれも善政の名声があった。聴政の合間に学者を呼んで講義を聞き、とくに『春秋左氏伝』を好んだ。義成軍節度従事の関澈が酒に酔って匡翰を罵倒したが、匡翰は怒らず、自ら罰杯を飲んで関澈をなだめた。天福6年(941年)、白馬で黄河が決壊すると、匡翰は河神を祭ったが、角のある犬を見て、病にかかったという[6][7]。天福7年(942年)3月17日[8]滑州で死去した。享年は40。太保の位を追贈された[9][7]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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